生活綴方運動の旗手であり、児童文学者、教育評論家、教育運動家でもあった国分一太郎。その国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと。それが、このホームページの大きな役割の一つである。

正月追想

正月追想

 元日の日の楽しみは「初買い」だった。暗いうちから起きて、私たち子どもは、そちこちの店へ、醤油、酢、なっとう、こんにゃく、あぶらげだのを買いにいった。店では「初売り」ということで、だちんをくれた。十銭ぐらい買ったのに、二銭の銅貨をくれた。そのだちんが正月の小遣いとなった。餅は、つきたてのなま餅を食うので、砂糖餅、なっとう餅、ゴマ餅、クルミ餅、雑煮餅と種類が多かった。そのうち雑煮餅が一番楽しみだった。これはほんとうの雑煮餅で、こんにゃく、あぶらげ、ゼンマイ、ゴボウの千切りなどの醤油汁のなかに、一年に何度も食べない馬肉か鳥肉がはいっていたからだ。

 餅を食う前に、青豆のゆでたのと数の子と、雑草であるスベリヒユを夏にとって乾しておいたものの、白あえを食った。このスベリヒユを方言で「ヒョウ」といった。これをたべるのは「マメで数々働いて、ヒョッとしたこと(偶発的な変事)がないように」とのことだった。それを、「ヒョッとしたこと(意外な幸運)があるように」と逆にいう年寄りもおった。正月の遊びは、こたつの上で「いろはガルタ」と「すごろく」をした。

 二十日までつづく正月の期間で、一番うれしいのは、十三日のダンゴさしであった。その日になると、雪道の両側にダンゴ木市がたつた。ダンゴ木とは、いまコケシの材料になるミズキのことで、その冬の枝は赤紫色に色づき美しい。一段一段車のように枝をひろげてのびていく木なので、その大枝を切ってきて売るのを買って帰ると、座敷の天井の下をはうように横へひろがった。私たちはそのミズキの小枝の尖端の芽を指先でちぎる。その尖端のひとつひとつに、米の粉でこしらえた直径二センチぐらいなダンゴをさす。そのダンゴのいくつかには、食紅で赤い色をつけたのもある。
 金持ちの家では十畳間いっぱいにひろがるほどのダンゴ木を買う。家に歳祝いの人がいる家でも、この年はいくらか大きめの木を買う。しかし、ごくささやかな木しか買えないような家の子である私たちきょうだいでも、このダンゴが花と咲いた座敷に寝るのは、たまらなくうれしかった。ことしも正月になったとの思いがしみじみとした。このダンゴの小枝は、井戸にも便所にも、いろりばたにも、みなさした。私の町では、これを「まゆだま」とはいわなかった。「繭玉」(まえだま)というのは、ワラのミゴをたぱねたのに、小さな餅のきれをくっつけて、養蚕をする家の方がよくつくった。ダンゴ木の根元の方には、親ダンゴという大きなのを、どっしりとすえつけた。

 ちいさいときの正月のことを思い、なにかあのころの習慣を、いまも実行にうつすとすれば、あのダンゴさしをしたいと私は思う。さいわいに米屋ではいま、米の粉を売っている。また私の家の庭には、どこからか小鳥が種子をはこんできて、糞をしたあとにはえたミズキがそびえている。ミズキがなければ、東京に多いクマノミズキの一枝をもらって代用としてもよい。米の粉をこねて、ダンゴにまるめ、熱湯で煮ると、ポコンポコンと浮きあがってくる。それをザルにあげて、うちわであおぐと光沢がいやに増す。それを枝先にさして、居間の一隅にかざるのだ。毎年正月十五日の晩、これも昔の正月の行事と思って、豆腐とこんにゃくの「でんがく」はつくっているのだが、こんどの正月には、このダンゴさしをやってみようと思う。あとでこのダンゴを焼いて醤油をつけて食う喜びも、また味わいたい。

                          (『国分一太郎文集 9 北に生まれて』新評論・1983年)


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