生活綴方運動の旗手であり、児童文学者、教育評論家、教育運動家でもあった国分一太郎。その国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと。それが、このホームページの大きな役割の一つである。

ダンゴさし

ダンゴさし

 「つめの町」といわれる旧歳末の市では「ダンゴ木」も売りだされた。道路の南側北側をおおった雪の上に、その商品はならべられた。おおきい枝のも、ちいさい枝のも、さまざまである。それぞれの家のひとが、自分のうちにふさわしいのを買い、かついで帰る。男女いずれかにその年「歳祝い」があるものがいる家と、金持ちの家では、特別おおぶりなのを買った。

 ダンゴ木とは、ミズキのことである。コケシをつくるのに適材のあのミズキ。よく知らぬ東京のひとは、いま流行のアメリカハナミズキを思いおこせばよい。植物学上は、あれと同じ仲間だから、アメリカハナミズキがそうであるように、ミズキも、幹のひとところから車の矢のように四方へ枝をのばす。だから成木の車枝の一本一本を切りおとせば、横に太枝をのばした、ひらいた枝ぶりの大枝となる。これは座敷の天じようの下をはわせるのにふさわしい。夏と秋はそうでもないのに、葉をみな落した冬の枝は、きれいな赤紫の色と変り、たいそう美しい。すべすべとしたツヤもある。これの枝さきのすべてに、ダンゴを、ひとつひとつさして、正月なかばの座敷をかざるのである。

 旧正月十二日になると、うすに、普通のウルチ米を入れ、祖母と母が、かわるがわる、きねで、それをたたく。米がみな粉になるまで、トントンとたたく。この地方で「小正月」とはいわなかったが、この「粉はたき」の音ぐらい、「あとの正月」のよろこびを思わせる音は、まずなかった。おたがいを雪の山でさえぎられたどの家からも、この音は発せられる。一方、わたしたち子どもは、ダンゴ木「芽つみ」をいいつかる。ミズキは、どんな小枝の先にも来年のとがった、ウロコの芽をたくわえている。脇芽となるものも一センチばかりの軸をもとにして、芽をふくらませている。この軸のところに、ダンゴをさすと、さしたダンゴの花は、まばらのおもしろくなさを、ぐんとおぎなうことにもなる。だから、わたしたちは「そのこまかい軸を折らないように」と注意される。その注意に忠実そのままに、爪のさきで、ひと芽ひと芽を、ていねいにちぎる。これをちぎらずにさすと、さしにくいし、のちに食うときに、そこのダンゴに、にが味がしみこんでいる。ポツリポツリと芽をちぎっていると、その芽は、ほんのりと匂う。やはり春の匂い。こうわたしは感じたのだったかもしれない。

 十三日。朝めしがおわると、祖母と母は、大きな鉢で米の粉を、お湯でこねはじめる。そして、ちょうどよいやわらかさになったころ、板の間にしいたうすべりのところに鉢をもってきて、
 「ほりゃ、まるめろ ! 」
 と例年のように号令をかける。そこで適度にちぎったのをもらったわたしたちは「これぐらいか、これぐらいでダメか」とききながら、それを、さらにちいさくちぎり、両のてのひらで、くるくるとまろめる。はじめは、なかなかまるくならない。大小がふぞろいのものもできる。しかしなれてくると、そばでやっている祖母や母のものとおなじような形とおおきさになっていく。全体の三分の一ぐらいなコネ粉には食紅がいれである。これはダンゴ木にさしたダンゴに、いろどりをそえるためであるその赤いダンゴの方を、やはり、
わたくしたちはまろめたい。だが、その方は量がすくないので、きょうだい同士の争いとなることもある。最後に、祖母が、ダンゴ木の一番もとにさす「親だんご」というのをまろめる。これは八畳と三畳間に、二本のダンゴ木をかざるとなれば、ふたついることとなる。子どものこぶしほどのおおきさのダンゴである。

 まるめたものを、せいろでふかし、できあがると、それを、ものをかわかすスダレの上にひろげ、ウチワで勢いよく母はあおぎつづける。こうすると、たちまちダンゴの表面にツヤがましてくる。

 ほどよくさめたのを、ダンゴ木のひと芽ひと芽にさす仕事、これにも、わたしたちはてつだわされる。それがまた、たいそうたのしいのだ。ところどころに、あんばいよく赤色のをさすくふうも、年々てつだいするうちには、当然身につくことになる。

 全部にダンゴがきされた「ダンゴ木」を、座敷のまんなかの柱に、クギでうちつけるのは、父親の役目である。さされたダンゴの重みで、枝はしなる。それを「ふみ台」にのった母がささえ、ダンゴ木は安定する。ダンゴで花と咲いた枝は、天井の下、くらい座敷にひろがって、家のなかは、急にはなやかとなる。

 そのときばかりは、座敷の柱や壁に、いつもつるされている父の消防組用ハンテン、越中富山の売薬の袋、町役場からの書きつけその他が、おしこみ(押入) にかくされて、せまい座敷も、いつになくよくかたづけられたところと変わる。

 このダンゴの花の下に、旧正月がおわるときまで寝るのが、わたしたち幼いものの正月における一番のよろこびなのであった。
 このダンゴを、三つ四つと特別にさしたミズキのちいさな枝は、台所にも、いろりにも、井戸ばたにも、さらには便所のすみにも、忘れることなく、ちゃんとしつらえられた。

 いまも、山形県東根市三日町下組で、亡くなった祖母や父母の気持ちを大事にしている弟夫婦は、この「ダンゴさし」をつづけてくれている。「おれたち夫婦が死ぬまでつづける」と「自家憲法宣言」でもするように、厳然といっているのである。

                         (『国分一太郎文集 9 北に生まれて』新評論・1983年 )


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