生活綴方運動の旗手であり、児童文学者、教育評論家、教育運動家でもあった国分一太郎。その国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと。それが、このホームページの大きな役割の一つである。

『東北自らが語るために―2011年3月11日以降の「国分一太郎」―』

『東北自らが語るために‐2011年3月11日以降の「国分一太郎」‐

はじめに

 2011年3月11日午後2時46分頃、私は大学の図書館で地震にあった。その日は、自宅に帰らず家内の職場で一泊し、翌朝早く車で帰宅した。12日朝、帰宅すると、自宅の一部が陥没し、家が傾いていた。その後、両親がいる避難場所に行き、家内と両親と避難所に一泊する。13日夕方、電気がつく。避難所で、拍手が起こる。そこで、家内と二人で自宅に帰る。14日、職場から帰ると両親からの手紙が自宅においてあり、避難所が変更になったと言う。避難所を含めた自宅近辺が地滑りのため、警戒区域に指定されたと言う。そこで、自宅から歩いて 20分程のところにある新しい避難所に行き、そこで一泊する。15日、早期に自宅に帰ることは無理と考え、近くにアパートを探す。不動産屋は閉まっていたが、運よく大家に巡り合うことができ、家内と二人でアパート で暮らすことになる。食糧、水がないために、両親は避難所にいることになる。震災から半月程は、一回の食事が二人でおにぎり一個といった日もあった。水は、近くの給水所から一日に数回選び、日中には数キロ先のスーパーに歩いて食糧や薬等の買い出し、といった日々だった。震災から二か月ほど経った現在、ライフラインも復旧し、食料等で困ることはなくなった。だが、家族四人でのアパート暮らしは続いている。5月末現在、まだ先は見えない。

 そのような生活のなかで、国分一太郎のことを何度か考えてきた。避難所の暗閣の中で、繰り返される強い余震の中で、国分一太郎ならこのとき何を考えるのか。国分一太郎の著作には、なぜ神が出て来ないのか。ほんの数時間の間に一万人以上もの命を奪い、多くの生活を破壊した自然がそれでも「すばらしき教育者」なのか。だが、それ以上に強く気になっていたのは、2010年12月に『国分一太郎「教育」と「文学」研究』第一集に投稿した原稿のことである。「贈りものとしての東北」という題で、国分の著作にはふたつの東北が描かれていると論じた。

 すなわち、遅れた地域として語られる東北とそのような東北を包み込むような東北である。そして、国分の著作を読むものは、遅れた地域として語られる東北を包み込むような眼差しを贈られると書いた。それが「贈りものとしての東北」の概要である。「おわりに」で次のように書いている。

『ずうずうぺんぺん』には、ふたつの東北が描かれている。ひとつは劣等感の対象としての「東北」である。劣等感の対象としての「東北」は「東北」の人間である国分を苦しめる。ズーズー弁を話す国分を苦しめる。したがって、国分は「東北」の独立を夢み、ズーズー弁を東京の言葉に近づけようとする。だが、そのような「東北」と国分とを、もうひとつの東北は包みこむ。そして、もうひとつの東北を見つめる国分の眼差しは「東北」と苦しむ国分を「あたりまえ」として突き放しつつも、どこか愛情をもって見つめ るのである。

 だが、3月11日の大震災以降、東北は一変する。少なくともこれまでと同じように東北を語ることはできない。このことは誰の目にも明らかである。だが、これまで語られてきた東北とは何であったのか。震災後出されたいくつかの論考は、東北が国分の言う遅れた地域としての東北、あるいは少なくとも同様の構図のなかにあることを示している。だとすれば、東北そのものが問われなければならない。現在、毎日のように繰り返される「東北の復興」が、遅れた地域としての東北へと戻ることであってはならない。その意味で「東北の復興」とは、国分の言う遅れた地域としての東北からの脱却であり、新しい東北への第一歩にほかならない。だが、新しい東北とは、どのような東北なのか。そのために何が必要で、何をしなければならないのか。ここに国分一太郎の著作を読み直すことの意義がある。そして、このことは拙稿「贈りものとして東北」を3月11日以降の地点から問い直すことの必要性を意味する。

 1  問われることのない東北

 国分が、遅れた地域としての東北に劣等感を抱き、 苦しめられていたことは周知のとおりである。例えば、国分は「ピドサガリ」で幼い頃の出来事を次のように書いている。
 

先生は、東京のよいことばが、こっちにくると悪くなる。それをなおすために、東京のことばをよくおぼえねばならぬと、しきりにいったものだった。 *1

 教師の言葉は、東北と東京の関係を典型的に示している。東北の言葉と東京の言葉を同じものと位置づけつつも、東北の言葉を東京の言葉が悪くなったものとして捉える。したがって、正しい東京の言葉を覚えなければならないと言う。そこで、幼い国分はズーズー弁で言う「ピドサガリ」や「アガスケ」と言った言葉が東京ではなんというか尋ねる。だが、先生は答えない。そこで幼い国分はおもしろくなくなる。

なんでも教えてやるみたいにいっているのに教えてくれない。これがズーズー先生にはおもしろくない。そしておしまいには、〈あっちには、なんでも、よいものがあるていうのはウソだな。こっちにあるもので、あっちにないものもあるんだな〉との考えを起こしてしまう。―こういうことがなんべんもあった。  *2

確かに、国分の問いは学校で答えるのには適切ではない言葉を含んでいる。だが、その点を除いたとしても、そもそも答えることの出来ない問いではなかったのか。なぜなら、国分の問いは東北と東京の関係そのものに向けられているからにほかならない。このような関係を宇佐美承は「北」と「南」の関係として捉える。すなわち、「ことば、気候、生産……と、すべてに恵まれぬ、抑圧された土地」である「北」と「抑圧する側の人間を育てる土地」としての「南」とである  *3。そして、「東北」は「北」に位置づけられる。

 確かに、かつてのように東北の方言があからさまに蔑視されることはないように思える。だが、宇佐美の言う「北」と「南」の関係は現在も続いているのではないか。例えば、山折哲雄は次のように書いている。

こんどの巨大地震は、端的にいって「東北」そのものを直撃したのだということです。それ以外の何物でもない。そして福島原発の一部損壊による放射能汚染も、ほかならぬ東北の福島の心臓部に襲いかかったということにほかなりません。しかもその「東北」の原発が「東京」の電力をまかない、「東京一極集中」の虚飾にみちた繁栄を支えていたということであります。 *4

また中井久夫は次のように書いている。

今度のことで知ったのは、東北地方がものづくりを担う、その比重の大きさである。低賃金によるのであるというが、日本が同じ国なのに地域によって報酬が違うとは思ってもみなかった。せめて正社員ならば同一労働同一賃金だと思い込んでいた。日本国内にも「中国」があったわけだ。  *5

ここで詳細に論じるつもりはないが、山折や中井が書いているのは、[北」としての東北の姿ではないのか。東京に電力を供給し、東京の繁栄を支える東北。そして、低賃金でものを供給しつづける東北。そこに国分を苦しめた「北」と「南」と同様の構造を見てとることは不可能ではない。

 現在、東北の復興を願う、東北を励ます多くの言葉をメディア等で聞くことが出来る。だが、そこで叫ばれている東北とは何を指すのか。東京の繁栄を支え、低賃金でものを供給し続ける東北ではないのか。東北の復興を叫ぶ前に、まず東北そのものが問われなければならない。当然のことながら、東北の復興とは「北」としての東北へと戻ることではない。むしろ、「北」としての東北そのものを問うことから新しい東北が始まる。そして、このことは「北」と「南」といった関係そのものを問い直すことでもある。だが、その答えはどこにあるのか。それは東北の暮らしそのものにある。東北の暮らしを見つめる国分のまなざしのなかにそれは隠されている。

 2  東北が語るために

幼い国分に とってアネコとは下女に用いられる言葉であり、到底許すことの出来ない言葉である。この言葉から生じるフンマンは、宇佐美の言葉を借りれば「北」であることから生じる。「北」である国分が「南」に対してフンマンをぶつけるのである。 (確かに、アネコと呼んだ娘も東北に住んでいる。だとすれば、「北」と「南」の関係を問うことは的外れのようにも見える。だが、宇佐美の言う「北」と「南」は単に地理的な問題ではない。) もちろん、母もこの言葉の意味を知っているに違いない。だが、アネコという言葉を聞くときの母の限差しは、遠くへと向けられている。そして、ときおり自信に満ちた表情さえ浮かべる。このとき、母にとってアネコという言葉は下女と言う言葉には決して還元することの出来ない、家族との温かい結びつきをもったふくらみのある言葉として現れている。フンマンをぶつける国分の眼差しが「南」に向けられているとすれば、母の眼差しは「北」と「南」の関係そのものを包みこむ自分の 暮しへと向けられている。そして、その眼差しは「北」である自分を「あたりまえ」のこととして突き放しつつも、どこか愛情をもって見つめるのである。

 ここに新しい東北の可能性を見てとることが出来る。「北」と「南」という構図の向こうにある、東北の暮らしそのものである。そして、このことは国分一太郎に限られているわけではない。例えば、東北学で知られる赤坂憲雄は震災について次のように書いている。

東北は変わる。日本も大きく変わる。いま・ここで、どのように変わるのかを語ることは むずかしいが、変わらざるをえないことだけは、否定しようがない。だから、いま、ここから始まる復興とは、たんに元に復すること、ひとたび壊れたものをまた整った形に戻すことではありえない。求められているのは、未知なる地平へと踏み出すことだ。 東北の思想を創らねばならない。

フクシマ / 福島、そして東北から、新たな世界観を創るために働くことにしよう。そのためにこそ、人としての身の丈に合った暮らしの知恵や技を、民俗知として復権させねばならない、と思う 。 東北学のあらたなステージが見えてきた。方位は定まったようだ。将来に向けて、広範な記憶の場を組織しなければならない。見届けること。記憶すること。記録に留めること。すべてを時代へと語り継ぐために。禍々しい災厄の記憶を、やがて希望の種子へと転換させるために。 *6

赤坂もまた新しい東北の姿、東北の思想が東北の暮らしそのものから生み出されると言っている。そして、そのためには、広範な記憶の場が組織されなければならないと言う。だが、記憶の場とは被災者が自らの苦しみや悲しみと向かい合う場でもある。 苦しみと向かい合い、そこから言葉を紡ぎだそうとする場でもある。苦しみや悲しみ、そのことが問われなければならない。そして、このことは昨年12月に書いた「贈りものとして東北」では十分に問うことのできなかった問題である。それは、国分の態度変更の問題である。『ずうずうぺんぺん』のあとがきで国分は、東北のことを書いているうちに自らの態度の変化があったと書いている。劣等感から逃れたいという気持ちから東北人の心のはしくれのようなものを探ってみたいという気持ちになったと言う。だが、なぜこのような変化が起こったのか。「贈りものとしての東北」ではこの問題が課題として残されたままになっている。しかし、今問われているのはこの問題である。自らの苦しみや悲しみと向かい合い、苦しみの中から身を振りほどこうとする力がどこからもたらされるのか。このことが関われなければならない。

 その手がかりを幼い国分とその母に見ることが出来る。国分は次のように書いている。

この母のとつおいつしているところが、わたくしには、実物の教訓となった。わたくしの中の「母と子」といったら、そういうところに、思い出のたねがひそんでいる。普通に「母と子」というのは、母が何かはたらきかけをして、それによって子どもの考えなり、性格なりがつくりあげられるということをさすだろう。 だが、わたくしの場合は、母のほうから、はたらきかけようと考えて何かをしたのではない。が、そうであればあるほど、それが、わたくしの心中深く影響を与えて、わたくしの考え方なり心のありかたなりを、しだいに形成していった。 *7

「とつおいつ」する母の姿が実物の教訓となった国分は言う。だが、「とつおいつ」する姿とはどのような姿か。それはどこまでも経験にどまろうとする姿である。この母の姿勢を、国分は「病人にさからうことのない看護」と「白夾竹桃」で書いている。

むかしは神経衰弱といった。そのおもいやつにかかってくるしんだとき、母は病人にさからうことのない看護をしてくれた。たとえば、「もうおれは死ぬんだ」と弱音を吐くとき、母は、「そうか、かわいそうになあ、夫婦のたのしみもしないで、お前は死ぬのか。かわいそうになあ。」 と憂いにみちた目をそそぎかけるのであった。「死ぬなんて、そんなパカなこと」などととがめだてすることはなかった。すると病人にはふしぎとカがわいてくる。 *8

国分の母は、どこまでも国分の苦しみにとどまろうとする。そして、国分の苦しみの中で言葉を語ろうとする。咎めようとする言葉が苦しみの外側から発せられるものであるとすれば、母の言葉は国分の苦しみの中から発せられる言葉である。咎める言葉がどこまでも他人の言葉であるとすれば、母の言葉は国分自身の言葉でもある。そして、母の態度が決定的に異なるのは、国分にカをもたらすことである。苦しむ母の姿に、国分は自分の姿を見てとる。このことは、それまで苦しみに埋没していた自分から距離を取ることである。そして、それは苦しみから立ち上がる力となって現れる。国分の言うように、病人にはふしぎとカがわいてくるのである。

 2011年3月11日以降の東北に必要なものは、国分の母のような他者である。それは、どこまでも苦しみの中に留まろうとする他者である。苦しみの外側から、励ましや慰めの言葉を発するのではなく、苦しみの中で発せられる言葉を待つ他者である。このような他者とともに、東北は自らを語り始めることが出来る。他者とともに語られる東北が、新しい東北の姿にほかならない。そして、それは「北」と「南」にかわる新しい関係の始まりでもある。


おわりに

 2011年3月11日の大震災がわれわれに突きつけたものは、「北」としての東北から新しい東北への態度の変更である。今回の震災は、現在の東北もまた国分を苦しめた構図のなかにあることを示している。だが、東北の復興とは「北」としての東北に戻ることではない。東北の生活そのものへと向かわなければならない。「北」と「南」の関係そのものを包み込むような東北の暮らしである。そのために、東北の暮らしを見つめる眼差しが必要となる。だが、このような態度変更はいかにして可能となるのか。今回の大震災は、国分の著作を読むものにこのことを強く突きつける。そして、この問題は拙稿「贈りものとしての東北」で十分に問うことのできなかった問題でもある。だが、その手がかりは、幼い国分と国分の母の姿にある。あるいは、国分と母の関係そのものが可能性であるといってもいい。国分の母は、国分の苦しみにどこまでもとどまろうとする。苦しむ母の姿に、国分は自らの姿を見る。このとき、国分は自らの苦しみから身をふりほどこうとする力を得ることになる。そして、このことは「北」と「南」にかわる新しい関係の可能性も示唆する。今、東北には、ともに苦しみのなかにとどまろうとする他者を必要とする。苦しむ他者とともに、東北は身をふりほどき自らを語り始めることが出来る。このときはじめて東北は再生の道をたどり始めることになる。

 国分は『自然このすばらしき教育者』において季節感の重要性を繰り返し説いている。国分にとって季節感とは、草木の自然さ、草木の自然な時間を意味する。人の都合によって造られた草木の時間ではなく、草木そのものの時間である。皮肉なことに、国分のこの願いは震災によって実現されることになる。人によって造られたものがことごとく失われた後に残されたのは、自然さであった。震災後、少しずつ周りのものが見えるようになるにつれ、被災者の多くが身の回りの小さな自然に目をとめている。 だが、なぜ小さな自然が気にかかるのか。それは、被災者そのものが自然さを生きているからにほかならない。国分は、『自然このすばらしき教育者』の中で、芽を出したばかりのフキノトウが「ようやっと春が来ましたね」とでも言うように見上げている、と書いている*9。このとき、フキノトウは 国分自身の姿でもある。国分の母の姿に、苦しみから身をふりほどく力を感じたように、フキノトウの姿に国分は自らを見出す。それは、力となって国分に現れる。震災後多くの被災者が小さな自然に目を止める理由もここにある。桜のほころびに、がれきのなかに生き続ける一本の木に、自らの姿を見てとる。そして、それは苦しみや悲しみから身をふりほどく力として被災者のなかに現われてくる。このとき、自然とは何かを教えようとする教育者などではない。人とともにある他者であり、人が生きるカそのものである。その意味で、2011年3月11日以降も自然は教育者でありつづける。


*1  国分一太郎『ずうずうぺんべん―東北のことばとこころ ―』
   朝日新聞社、 1977 年、 17 頁。

*2  向上、 19 頁。

*3  宇佐美承「国分一太郎と私の痛み」、山田宗睦編『人間の痛み』
   風入社、 1992 年、 231 頁。

*4 山折哲雄「東北の魂は耐えて、震えている」 、
  『仙台学』、 Vol-11 、 2011 年、荒 蝦夷、 61 頁。

+5  中井久夫『災害がほんとうに襲った時 阪神淡路大震災50日間の記録』
   みすず書房、 2011 年、 6頁。

*6  赤坂憲雄「いま、東北ルネサンスが始まる」 、
  『g2』、 vol-7 、講談社、 2011 年 4 月、 51 頁。

*7  国分一太郎『わたくしの中の母と子』
  、百合出版、 1965 年、 2 頁。

*8  国分一太郎『自然このすばらしき教育者』
   創林社、 1980 年、 165-6 頁。

*9  向上、 844 頁。

   
 2011年5月31日  (宮城学院女子大学 非常勤講師  安部貴洋)  


生誕100年2日目の会場で
生誕100年2日目の会場での筆者、安部貴洋さん。奥様と一緒の参加でした。(工藤)

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