生活綴方運動の旗手であり、児童文学者、教育評論家、教育運動家でもあった国分一太郎。その国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと。それが、このホームページの大きな役割の一つである。

アネコ

アネコ

 下三日町から、東の方へ上三日町とのぼり、そのはずれの火の見やぐらのあるところまでいくと、
仲町通りが見えてくる。わたくしの町は、百姓町とはいえ、もとは小さな城のあった町だ。だから
町を通りぬける道路は、要所要所で、ぎくりとまがる。いくさのとき、てきをむかえうつために、わ
ざと、こう作ったのであろう。それで仲町を通り、そこのはずれにくると、またこんどは八日町の
通りがあらわれ、その左側に「助役さん」の家がある。わたくしの母親が、娘のころに下女奉公を
した家だ。

 正面左側にオツボ(庭) をもつ黒板塀、その右にどっしりした大きなカヤぶき屋根の母屋があっ
て、その軒先のところではタバコの小売りをした。夜、戸をしめてからも、タバコをあきなう小さ
な窓が、店の戸にポッカリあいている。
 
 当主の名は小池為治氏といい、わたくしが小学一、二年生のころまで、町の助役をしていた。ず
いぶん長いあいだ助役をつとめたとのことで、やめてからも、その家のことは「助役さん」と呼ば
れていた。小池という家は、このほかに、八日町と一日町に一軒ずつあり、みな木家分家のあいだ
がらであった。そのうち八日町をもうすこしのぼった右側にある一番大きい家を「小池様」と呼ぶ
ので、そのほかのを「小池様の分かれ」といい、なかでもそれを区別するために、この家のことは
「助役さん」といったのだろう。

 小池為治氏は町のひとから「為治さんは貯めずさんで … 」といわれ、その廉潔ぶりをたたえら
れていた。ワイロをとって、きたない金を貯えるようなことはしなかったというわけだ。在職中は、
町長工藤尚三氏が近村の人びとに提唱してはじめた白水川の洪水を防ぐ土木事業のことで、当時の
政友会などの政党活動に関係したりして忙しい町長にかわり、実際の骨折りをしたので町の人の信
望をえていた。四、五歳のころに、へソの上まである大水の中をこいで、家族といっしょに煙草専
売局のある小高いところへ逃げた経験のあるわたくしは、母親から、
 「もと、あの助役さんの家で下女をしていた」
ときくと、なにかなつかしいような慕わしいような気持になった。

 学校からの帰りみち、「助役さん」の家の前を通るときは、
「この家にアッカ ( 母 ) がつとめていたことがあるのか」
と考えながら、その家の板塀ごしに見えるマツの木、そのうしろに見える白壁の土蔵、母屋の大き
なカヤぶき屋根、ひっそりとタバコをならべている質素な店先、その右側の奥にはいっていく土間
道などに、たちどまった目を、しばらくそそぐのだった。

 「助役さん」の家は、すこしばかりの田畑をもち、小池為治氏が助役をやめてからは、それから
はいってくる年貢米と、店であきなうタバコのもうけでくらしているのだと、母親は教えてくれた。
家には、奥さんが死んだあと、東京の学校へいっているひとりの息子のほかに、女の姉妹たちが幾
人かいた。その姉妹たちが小さいころのことについても、母親はいろいろなことを教えてくれたが、
いまはたいてい忘れてしまっている。

 わたくしの家で、下三日町の氏神みたいな太神宮様のお祭があり、そのごちそうのあとの赤い色
をしたお膳やドンブリ、サラなどを洗ってふいているとき、母親はよく、
 「助役さんのアネサマ ( おかねさん ) から、お膳やおわんのふきかたなど、こうしてからこうし
てと、よく教えてもらったもんだった」
と、手まねをしながら、思い出ぶかそうに話した。そんなとき、幼いわたくしは、その広い家の、
つめたく暗い板の間にちょこんとすわり、たくさんのお膳やおわんをふいている、小さな母親の姿
を思いだして、ふとつらい思いにかられることもあった。しかし母親は、その家での奉公のつらさ
というようなことを、わたくしたちには、ひとことも語らなかった。


 その「助役さん」の家のひとから、わたくしに直接いわれたことで、わたくしは、うんと腹をた
てたことがあった。

 あれはたぶん、わたくしが、尋常一年生のときであっただろう。ある日、幼いわたくしは、受持
の菅原弘治先生からたのまれて、学校の帰り、「小池様」の家に弁当ガラを持っていった。菅原先
生は、その「小池様」の家に下宿をしていた。菅原弘治先生は、そのころ、教員の発明工夫展覧会
とかに、新聞紙でつくったチョッキを発明したのをだし、一等賞に入選したとのことだった。

 りっぱな前庭のあるその家の門を、おそるおそるくぐって、縁側のところへいくと、そこに「小
池様」の娘と、「助役さん」の家の女のひとが、ふたりで話をしていた。その「助役さん」の家の
女のひとの名は、ツネちゃんというのだったか、タエちゃんというのだったか、もとは母親からき
いたはずだったのに、わたくしは忘れてしまっていた。いまもただしくは思い出すことができない。
だから、かりにツネちゃんとしておこう。
 「先生な(の)だ」
といって、弁当箱のふろしきづつみを縁側に投げつけるようにして置き、くるりと背を向けて帰ろ
うとすると、そのツネちゃんが、わたくしの方ヘ、
 「あれ ! 」
といった。なんだろうと思ってわたくしがふり向くと、こちらをじっと見ながら、
 「お前、アネコの家の子どもだべ ? 」
とたずねた。

 アネコ。それは、下女をやとうような家で、その下女を呼びならわすことばであった。そういう
家では、下女を呼ぶとき、「おとめ」「おキツ」などと呼びすてにしていうほかは、たいてい「ア
ネコ ! 」と呼ぶのであった。家のおとなだけではなく、ちいさい男女の子どもたちまでが、「アネ
コ ! 」と呼びつけるのであった。そのアネコという呼びかたで、
「お前、アネコの子どもだべ」
と、たずねられたのだから、わたくしは腹がたつた。腹のそこが、にわかにムシャクシャしてきた。
もとはアネコだったかもしれない。けれどもいまはアネコではない。いまはおらの母親ではないか。
それなのに、平気で、アネコなどと呼ぶ !

 腹がたってたまらないので、わたくしは、それに答えず、ツネちゃんの方をきっとにらんでいた。
するとツネちゃんは、わたくしが、自分の問いを聞きもらしたのだと思ったのでもあろうか。こん
どは、
 「ほら、下三日町新道の床屋のオデンの子どもだべ ? 」
とわたくしに向って、ニコニコ顔でいい、それから「小池様」の娘の方へ目をやって、
 「ほおら、うちにいたオデンというアネコ、ねえ、知ってんベ。あのアネコの子どもよ」
と話しかけた。
 「ふん、ふん」
「小池様」の娘もうなづきながら、ニッコリして、わたくしの方を見た。
 「すばらく見ね間に大きくなったなあ。アネコちや(に)、ここらへん通ったどぎ、遊びに寄れっていってくれな」

 ツネちゃんは、ふたたび、こうわたくしによびかけて、親しげな笑顔を見せた。しかしわたくし
の心はほぐれない。
 〈遊びに寄れといったって。アネコといったり、オデンと呼び流しにしたりして……〉

 わたくしは、そうだとも、そうでないとも返事をせず、くるりときびすをかえして、かけるよう
にして門を出た。


 家に帰って、さっそく、そのフンマンを、母親にぶちまけようとしたが、母親は店でしごとをし
ていた。わたくしは、母親がしごとを終えて、勝手へ帰ってくるのを、ほんとに待ちきれぬ思いで
待った。

 ひとの家のものを、よくもアネコだの、オデンだのと言えるものだな。近所のおとなは、だれだって「オデンさ」とか「イヅダロ (一太郎) さの家のアッカ」というではないか。そうでなければ「床屋のアッカ」というではないか。家で「オデン」と呼び流すのは、父親と祖母だけではないか ! これでは、なんとしても腹にすえかねる。アッカに、うんといってやらなければならない !

 わたくしは、自分の家で「アッカ」といわねばならぬことについてさえ、つね日ごろ、くやしさ
をおぼえていた。ここらへんで、子どもが母親をよぶときには、「アッカ」「オッカ」「オカチャン」の階層別があり、そのうち「アッカ」は、一番下っぱのいいかたであった。貧乏人の家では、そうよばねばならぬしきたりとなっていた。もしもわたくしが、かりにまちがってでも、「オッカ」などといおうものなら、「いつから床屋の家では、オッカというように、なりあがたなや ? 」と、とがめられそうなのだった。その「アッカ」でさえ、くやしくないことはないのに、アネコとはなんだ!オデンとはなんだ!

 こみあげてくるくやしさをおさえかねているところへ、母親が勝手にはいってきた。わたくしは、
さっそく大きなフンマンをぶちまけた。ところが、母親は平気のへいざだった。
 「ああ、あの女学校を出たツネちゃんか。あのツネちゃんは、あそこの姉妹のうづ(ち)で、一番
いい娘だったなあ。んだ。いまでも、ここの前通って、おれが川ばたで、鍋など洗っているど、アネ
コ、からだ大丈夫か、て、そばさよってきて、聞いていくな(の)だ。だんまりみたいだげんと、内
心(なえすん)はいい娘でなあ」

 わたくしは拍子ぬけがしたような気持で、母親のへろっとした顔を、なにもいわずに見つめた。
けれどもやっぱり、また、
 「んだって、ひとのアッカば、アネコなていって …… 」
と、まだとけないしこりを胸に感じながら言いはり、こうもつけくわえた。
 「いがにも、えばっているみたいだもの …… 」
 すると母親は笑いだしながら、
 「んだって、アッカは、ほんとに、あそこの家のアネコだったんだもの。アネコアネコとみん
なから呼ばれていたんだもの。オデンても、呼ばれていたんだもの。んだから、アネコといわれた
って、あたりまえだべした。な、あたりまえよ」
というだけだった。
「んだって、いまでも、そんなこと……」
「んだって、ツネちゃんなど、小さいころから、おれのこと、アネコアネコって呼んでいたん
だもの。オデンても呼んでいたんだもの。いまになって、別な呼びかたなど、できないベした」

 母親は自分のことを遠くふりかえるような顔になりながら、〈あたりまえなことは、あたりまえ
と思え〉と、たしなめるように、こうくりかえすのだった。いや、そういうたしなめごとなどする
意識は、ちっともないように、ごく平静にいうだけだった。

 こんなことで、わたくしは、母親が幼いときから、よその家に出て奉公し、年に三円か四円の金
を、生家のためにかせいできたことを、当然なこととこそ思っておれ、いじけたりなどはしていな
かったことを、しだいに知っていったのだった。そしてときには、
「いいアネコだがらと、長い年数、助役さんの家においてもらい、それから、そっちからも、こ
っちからも、ゆずってくれ、ゆずってくれといわれて、あとではカクタ呉服屋にいって、それから
お前のオッツァ(父)のところへ、嫁入(むかさ)ってきたのよ」
と笑いながら話すときの母親の顔に、いつも、この点では、自信にみちたような面持をさぐりとっ
て、なにかを考えずにはいられなくなるのだった。

 それから年が流れ、わたくしは、尋常六年を卒業することとなった。その卒業式の日に「学業優
等」という賞をもらった。授賞する人数の上でのふりあいがあるのか、わたくしに与えられた賞状
には「学業優等ニツキ頭書ノ通リ授与ス」とだけ書いであった。わたくしの前までに、校長の前ヘ
呼びだされて、頭をさげてきく読みあげのことばには「身体健全・品行方正・学業優等」とか、
「品行方正・学業優等」とかがついていた。それとくらべれば、わたくしのは、まったく単純なも
のであった。もちろん「身体健全」はダメだとして、そのとおりによめば「品行方正」ではないも
ののようだった。

 わたくしは、その賞状のほかに、当時「紙ハサミ」と呼ばれる肩からひもをつるしてさげである
く、小さいカルトン風の紙カバンをもらっただけだった。でも五年生の修業式までは、一度も賞は
もらわなかったのだから、わたくしはうれしかった。

 祖母や父母に早く見せたいものだと、紙ハサミのひもをカスリの羽織の肩にかけ、町通りを大い
そぎにくだっていった。どうせ上の学校にはあがらぬのだから高等科にははいる。だから、またこ
の学校へはくるのだ。こうは思いながらも、卒業ということで、「蛍の光」の歌のことなど思いだ
す感傷的な気持ちになり、校庭にそびえる日本一の大槻(おおづき)の木をふりかえりながら、家へと急いだ。道には、よごれて残った岩盤のような根雪がへばりついていたが、そのそちこちには、春がくるのをつげる割れ目もできはじめている。その上を下駄を鳴らしてわたくしはあるいた。

 そのわたくしが、「助役さん」の家の前のところまできたときだった。
 「あの、床屋の……」
とわたくしを呼びとめるらしい戸が、道路の右わきから聞こえてきた。それでふとその方を向いて
立ちどまると、「助役さん」のタパコを売る店のたたみのところに、れいのツネちゃんがいて、目
のへっこんだ顔に、かすかに笑いをうかべながら、「ちょっと、こっちに寄れ」というように手招
きをしているのだった。母親から聞くところによると、そのころになっても、ツネちゃんは嫁いり
もせず、父親の為治氏のめんどうをみたり、店に立ったりしているとのことだった。

 招かれるままに、そばへ寄っていくと、ツネちゃんは、
 「ほうび、もらってきたのか。よかったなあ。どれ見せろ」
といいながら、わたくしが手にしている賞状の巻いたものの方へ、火鉢にかざしていた右手をさし
だすのだった。そしてわたくしがいわれるままに賞状をわたすと、ひろげて読んでいたツネちゃん
は、やがてわたくしの顔に目をうつし、賞状をまきながら、
「よかったなあ。それから、こいつはほうびの紙入れか ? 」
と首を横にまげて、「褒賞」の朱印をおした紙でつつまれた紙ハサミにながめいるのだった。その
紙ハサミの包み紙からはみだしているところには、白いあひるの絵の半分が見えている。ツネちゃ
んは、巻いた紙をわたくしの手に返し、
 「アネコ、なんぼか喜ぶぺちゃあ ! ころばないで、早く行け」
と、わたくしの頭のてっぺんから足の先までを、つくづくながめるようにした。わたくしはことば
もなく、ニコリとしながら、かるく頭をさげて、「助役さん」の家の店を出た。
 〈アネコ、なんぼか喜ぶぺちゃあ……〉

 そのとき、この女のひとから、母親のことをこういわれでも、わたくしの心のなかに、いきどお
りの念は、もうわかなかった。


 
 後年、わたくしは、小学教師になってまる二年目となるすこし前に、県内にひそかにできていた
「全協」系の教員組合に参加したかどで、隣り町にある警察署に検挙された。そして二週間ばかり
留置されて、家に帰された。そのあいだにあったというひとつのことを、わたくしは、のちになっ
て母親から聞いた。

 ある夕方、家の前の溜池で、母親がものを洗っているところへ、「助役さん」の家のツネちゃん
が近づいてきた。どこかへ行ってきて、駅からの帰りでもあったのだろう。三月はじめのまだ寒い
日であったが、ツネちゃんは、女もののえび茶色のマントの中から両うでをだし、
 「ああ、ツネちゃん ! 」
と立ちあがるわたくしの母親の両肩に手をかけて、
 「アネコ、ほんとに心配(すんぱい)だべ。心配して、からだばり、ぼこさねように(こわさないように)なあ」
と泣くようにしていったという。

 母親は、その夕方のことを、わたくしとふたりだけいるところで、しずかに話して聞かせ、ボロ
リと涙をこぼしながら、わたくしの顔をまじまじと見つめた。

                              『国分一太郎文集』第9巻「北に生まれて」より

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