生活綴方運動の旗手であり、児童文学者、教育評論家、教育運動家でもあった国分一太郎。その国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと。それが、このホームページの大きな役割の一つである。

『兵庫の先輩に学ぶ「日本語教育」』(1)

『兵庫の先輩に学ぶ「日本語教育」』(1)

ハードパスからソフトパスへ

 今年正月に札幌で行われた日教組教研で僕の心を大きく揺り動かしたことが二つありました。

 ひとつは、兵教組が正会員として送り込んだ朝来支部小野さんが、 日本語教育分科会で、読み方教育において教材分析を見事にされて、 ほとんど全国の方々にすばらしいという評価を受けました。このことが大きく脳裏に残っています。

 もうひとつは、「ハードパスからソフトパスヘ 」という言葉を聞いたときに、この「兵庫の先輩に学ぶ日本語教育」という演題が思いうかんだ、ことです。

 このフレーズは、日教組教研の理科教育分科会で語られているらしく、実は、共同研究者の山口幸夫さんからいただいた冊子の中にありました。山口さんは、今は亡き高木仁三郎さんの後を継ぎ「原子力情報室」の代表をしています。東大で物性物理学を学ばれた工学博士で、肩書きが示すように、時代の先端をいく科学者です。共同研究者のよしみで、臨界事故のときは、原子力発電所の情報を、また新潟中越地震のときはプレート図解の資料をというように、その時々の科学解説・情報を届けてくださいます。今回は、雑誌寄稿の論文と他の共同研究者の執筆を冊子にしたもので20頁を越える貴重な文献でした。

 「ハードパスからソフトパスヘ 」、その内容を読んだとき、「これは僕がずうっとやってきた生活綴方そのものではないか」と思ったのです。

「ハードパスからソフトパスへ。子どもたちの息吹。牛の出産に立ち会おう。もうすぐだよ。その報せで子どもたちが走る。間に合わなかった。二回目は土砂降りの中を走った。今度はなかなか生まれない。『うまいこといかんもんやなあ。』と子どもがつぶやく。『そうね、それが自然なんよ。生命の誕生が人間の都合のよう、思い通りにいったら、怖いんよ。』と先生が言う。とうとうその場に出遭うことができた。落ちているうんこをわざとらしくよけ、牛がうんこをするとウワァーなどと叫んで逃げていた子どもたちが、みるみる変わっていく。うんこが出る穴でかい。力むとシワシワになる。あんた達のお尻もいっしょやで。」

 こうやって牛の出産に立ち会った子どもたちが、今度は自分で書くようになります。その中の一節を彼は紹介しています。
「ふーん、ああやって出てくるの。出産の時、牛のうんこが子牛にかかる。もう、きたないなんて思わない。私は今日のことは忘れません。生まれる瞬間をみて、嬉しかったです。みんなガンバレと声をかけて、ずっと牛を見ていました。今日は感動の日だと思いました。私はみんながやさしいので、それにも感動した。」とこのように書いています。

 綴方の仕事をしている人間は、牛の出産等に立ち会った子どもの綴方に数限りなく接してまいりました。九州熊本天草の子は「カズコ牛は美人だ」という文章を書きました。もう30年も前のことなんですが、非常に感動的な話だったのです。「カズコ牛は美人だ j という題をつけたのは、受け持ちの先生がカズコというところからきています。その子の家では、牛が生まれるたんびに子どもたちに命名させる。今度はオマエの番だ、今度はオマエの番だと。そのカズコ先生の受け持ちの子が、何てつけようかなーと考えて、ふっと思いついたのが、カズコ先生だった。カズコ先生は家庭訪問なんかも気軽にしてくれる。 そして先生は、飼っている牛を一生懸命なぜたりなんかする。カズコ先生もその昔、子どもの時代からずーと牛の世話をしてきたのです。ですから牛の話をしたら先生とよくウマが合う。というわけで、とうとう生まれた牛にカズコと名前をつけた。子どもは黙っているわけがありません。「先生見に来て」となんどもせがんだ。先生は「忙しくて行けません」と断り続けていたのですが、ある朝、先生がふらりと寄ってくれた。「カズコ牛見せてよ」子どもが学校に行く直前です。先生の「あ一、カズコ牛は美人だ」。その一言が文章の題名になったのです。その子たちにとっては、当時牛の出産というのは珍しいものでも何でもなかった。しかし、そのことを科学者達は今、ソフトパスからハードパスへと言います。この科学者達は出前で理科の授業をしています。ありがたいことです。そういう中で基本にしていることは、何かというと、いつでもここには二つの道がある。一つはハードパス。簡単に言うと、多量のエネルギーを使って資源を消費して生産を上げる。進歩発展こそが人類の未来と信じて疑わなかった我々が今までずーと経験してきたことです。繁栄のツケは大きかった。確かにこのハードパスの道は日本を富める国にした。しかしその代償は大きかった。今になってエコ、エコと変わる。 我々は中身のわからないブラックボックスと決別をして、もっと地に着いたことをしていかなくてはいけないと考えた。それが、「ハードパスからソフトパスヘ」という提案になります。

 皆さんにも既にこういう提案が伝達講習されていると思いますが、理科教育の人たちは2005年1月8日に『ハードパスからソフトパスに向けて』という冊子を僕にまでも分けてくださった。共鳴することが非常に多く、それ以来僕は、どこにもこのテキストを持参して、話をさせていただいております。これからまた、北海道札幌にいきます。その後は、九州ブロック教研があり、沖縄に行きます。そこでも必ずこの論文をテキストの一部に入れて紹介しようと思います。皆様方も、未だこの論文に出遭っておられないなら、できれば理科部会から資料を頂いて学習をされることをお薦めします。

 7月3日、僕が主宰する『「国分一太郎「教育」と「文学」研究会』というのを生誕の地、山形で行いました。正直なところ、よその地で自分達の研究会をするというのは難しいものですね。会場を求めるだけでも 大変でした。会場を設定しました。関西からも沖縄からも集まっていただきました。みんな学者・研究者です。70名を想定していましたが、想定外のことが起こりまして、参加者全てに資料がゆきわたらないということになりました。たかが資料と思われるかも知れませんが、その資料は、新しい国分一太郎研究の貴重な資料です。しかも三上斎太郎という青森出身の教師と国分一太郎が方言詩論争をした、そのことを中心とした論文が入っている。それから、国分一太郎に長瀞小学校時代の『もんペ』、『もんぺの弟』という文集がありますが、その『も んペ』という文集が国分一太郎にとって何であったかという大阪教育大の助教授の研究資料です。国分一太郎没後20年になりますからそういう記念の研究会だったのです。なぜ、このような古い人の話をするか、それはやはり「ハードパスからソフトパスへ」 今の教育の形が変わらなければならないと思うからです。文部科学省のいろんなことが報告されていますけれども、彼らは本当に日本の教育のことを考えているのかどうかと疑わしいことがたくさんあります。居丈高に恐喝的なことばかりやっていますが、一度でいいから、この兵庫で生まれた子どもたちの詩を読ませてあげたいと考えます。

東井義雄と国分一太郎

 第一番に、東井義雄のことを話します。

 兵庫県の先達東井義雄が指導した詩の中で、僕がもっとも惹かれる詩が皆さんの手元にある「川」という詩です。この詩を僕は読む自信がない。但馬の子どもが書いた詩を、但馬の息吹が、あるいは、土の匂いがするような形で僕は読めないのです。あとで、但馬の人に読んでいただきたいと考えているのですが。

 東井義雄の名前を知ったのは、この詩からではなくて、国分一太郎とのかかわりからです。国分一太郎は戦争中に治安維持法によって獄 に繋がれました。一応執行猶予だったのですが、未決のまま山形の刑務所に随分長い間繋がれました。その国分一太郎が、戟争中に『学童の底民感覚』という本を書き、戦後自分で自ら筆を折ったという東井義雄のために復帰第一作『村を育てる学力』の序文を書きました。この序文を書く前に「転向の難しさ」という文を朝日新聞声の欄に投稿しています。

 東井義雄の『村を育てる学力』はやがて、戦後の教師達の必読書になりました。個人的に言えば、わが師国分一太郎が、この出版にかかわっていることを知り、座右から離せないものになったわけです。その後に出てきた兵庫の先達の多くの著書に接したとき、「兵庫が生んだものだ。兵庫には生活綴方の土壌がある」と考えざるをえませんでした。後でふれる『学級革命』の小西健二郎とは生活綴方で、結ばれていたという事実があります。

生活綴方とは何か

 生活綴方で一番大事にしているのは、“子どもの捉え方”です。子どもを決して学校で勉強する者、すなわち学習者としてだけ捉えてはいない。学校というところは文化の継承者としての子どもたちに学問をさずけるところであるということに誰も異論はないと思うのですが、生活綴方では、もう一極、必ず生活者であるということです。そのことをずーと守ってきたのが、今言う2人です。

 「今日ノ生活綴方トハ、(1) カラダトイノチヲモチ、社会ノナカニ生キル生活者トシテノ子ドモガ、(2) 自分ヲトリマク外界 (自然オヨピ社会・人間)ノ事物カラ働キカケラレタリ、マ夕、自分カラソレニ働キカケル過程デ、(3)ソノ心身ノ発達ト環境ノチガイニ応ジテ、(4) 考エタコトヤ感ジタコトヲ、(5)ソノ考エヤ感ジガ出テキタモトデアル外界ノ事物ノ具体的ナ姿ヤ動キトイッショニ、(6)自分ノモノニナッタコトパ、体験ト思考卜感動ニウラヅケラレタ生活ノコトパデ、(7)日本語ノ文法上ノ約束ニモ合ッタコトパデ、(8)日本ノ文字デコトパヲ表記スル上ノサマザマナ約束ニモ、ホボシタガイナガラ、(9)ダレニデモヲカルヨウニ、ハッキリト表現サセタ文章デアル。」
 これが生活綴方です。身近な言葉で表現するなら、生活綴方というのはまさに、その子どもが立っている地べたに、足をふんまえている姿、そういう姿でしか、この生活綴方はなしえないだろうと考えます。

 では、具体的に東井義雄はどのような仕事をしたのか、先程の『川』の詩から入っていきます。


    保田 朗  出石郡相田小学校5年

さら さるる ぴる ぽる どぶる

ぽん ぽちゃん

川は いろんなことを

しゃべりながら 流れていく

なんだか 音が流れるようだ

顔を横向きにすれば どぶん どぶぶ 荒い音

前を向けば 小さい音だ

さら さるる ぴる ぽる

大きな石をのりこえたり

ぴる ぽる 横切ったり

ぴる ぽる どぶる ぽん ぽちゃん

音は どこまで 流れていくんだろう

                (指導・東井義雄)

 家永教科書裁判の時に、文部省は教科書に載せる文はとっぴなものであってはいけないのだ。川の流れを表すのに、「( 春の小川は)さらさら流る」の「さらさら」でいいのだとかたくなな主張をしました。

 日本の子どもたちはそんな干からびた感性をもってはいない。もっと 生き生きとした感性を持っていると、この保田朗さんの「川」という詩を出して、法廷の人間をうならせたということであります。日本の子どもたちの感性のみずみずしさを表すために大きな力になった詩です。


墓前祭で挨拶する筆者

第5回国分一太郎「教育」と「文学」研究会墓前祭で、挨拶をする筆者(2009年6月27日)。



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