生活綴方運動の旗手であり、児童文学者、教育評論家、教育運動家でもあった国分一太郎。その国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと。それが、このホームページの大きな役割の一つである。

『タランモンハタラントイワナアカン』

『タランモンハタラントイワナアカン』

「タランモンハタラントイワナアカン」

学力保障への射程―いま、学力問題とは何か

―徹底した推敲指導で学力保障を

(『国分一太郎先生に学んだことーつれづれにー』、乙部 武志 著 より)

お上と下々(おかみとしもじも)

 今どき、こんなことばを使うと、時代錯誤とそしられそうだが、この国のその時々の指導者たちは、異口同音に「わが国は民主国家だ。法治国家だ 」と広言してはばからない。その実、民が主だったことはなかったし、法を守ることにおいても、憲法の範囲内でと前置きはするものの、何かにつけて、場あたりの拡大解釈を押しつけて口をぬぐってきた。ここで論じ ようとすることと直接関係はないが、火急のこととはいいながら、同時多発テロ後の政府の言動は、その直後の高揚した最中のこととはいいながら、「湾岸戦争の轍を踏むな」「高く旗を掲げよ」と、下々の声に耳を傾けることなく暴走の気配さえある。権力を持つものの判断がすべてで、民衆は 愚弄され続けている。文部科学省の文教政策にしてもしかりである。2002年度から実施される学習指導要領をめぐる、場あたりの、思いつきの解釈は、いたずらに教育現場を混乱させるばかりである。


「ゆとり教育」と「反ゆとり教育」

 新学習指導要領の目玉は「ゆとり教育 」と標榜している。従来の教育が、知育偏重であったという反省をふまえての新施策であるという。しかし、わが国の教育で、真に知育が尊重されたことがあっただろうか。ゆとり教 育に対して、反対を表明している学者、研究者の多くが「理数系」の人たちであることは、今日の児童、生徒の理科ばなれの現実と照らし合わせてみて、故なしとはしない。

 知育=詰めこみという、見当ちがいの判断が、ごく常識的な科学的認識さえも敬遠し、指導要領の内容をいたずらに倭小化したことへの危慎が、この人たちを立ち上がらせたのであろう。それかあらぬか、文科省が金科玉条としてきた学習指導要領の遵守を、大きくゆるがす「新解釈」が出てきた。高校教科書の検定で「学習指導要領を超えた記述を容認する考えを教科書会社に示した 」ということである。これは今回の高校に限ったことではない。既に検定の終わった小、中学校に対しでも、従来の、指導要領の内容を逸脱するなというきついお達しを、いとも簡単に「指導要領は教えるべき最低の基準」と、まさに急転回してしまった。しかし、とはいっても、看板である「ゆとり教育」をはずしてしまったわけではない。学力低下、ゆとり教育に反対するすさまじいほどの論陣に、これまた、場あたりの逃げとして言いわけをし、その背後では、着々として「習熟度別指導」「習熟度別学級編成」実施の布石を打っている (このことについては、『教育評論』アドバンテージサーバー、2001年10月号の拙稿を参照されたい )。この場あたりでお茶をにごしている文科省が、「ゆとり教育」の流れのなかで、学校教育から「指導」を奪い「支援」をごり押しする珍現象を生んだ。「支援」は何かと物議をかもす単語だが、これがまた、したたかさの実態でもある。

「綴方教育」 はやせ細った

 新学習指導要領「国語編」は、内容の削減が多かった理数科に比べて、大きな改訂はなかった。しかし、週五日制の実施による時間数の減によって、物理的にその取り扱いは大きく変わる。時間数は減っても、配当漢字の1006字は変わっていない。改訂の要点を述べた解説書によれば、「ゆとり教育」に反しないようにとの配慮からか「第6学年を修了するまでに、学年配当漢字表の第5学年までに配当されている825字を確実に書けるようにする」と許容を見せている。

 とはいいながら、この時間数の削減は、綴方教育をこよなく大事にしてきた教師にとっては大きな痛手である。自分の教室が生み出した貴重な文 化財であるとだれもが認めてきた「学級文集」が、年を追うごとに数を減らしている。もっともこれは、指導要領の内容にかかわらず、「綴方このよきもの」から、「綴方このやっかいなもの」と遠ざけられている風潮のせいではある。くやしいが、日本の土壌が生み育ててきた生活綴方の伝統は、継承され、生きているとは言い難い。さいわいなことに、文科省は、場あたりに、何でもありの総合学習を準備してくれた。かつてわれわれの 先輩が、「教授細目」のすきをついて、綴方運動を起こしたひそみに習って、プラス思考に転ずることも「よきもの」への筋道であろう。既に模索している実践者が数多くいる。


「番きたいことを、書たいときに、書きたいだけ書く」とは ?

 今、関西の一部に定着し、範囲は狭いが別の地区にも伝播している作文教育観である。初めて、このフレーズに出くわしたかも知れない読者であ るあなたは、どう読みとりどう感じただろうか。長い間、綴方教育に携わってきた者の立場からは、“こうできたらいいなあ。こうなってほしいな
あ”と、これを主張している人たちにうらやましささえ覚える。文章表現 指導の極致であり、理想郷である。まさに、文章表現をなりわいとしている「作家」の姿である。指導の対象になっている子どもたちは

①書きたいという題材を常に持っている。

②それを書きたいという表現意欲が、他に促されることなく、自発的に出てくる。

③文章構成や、表現 (表記・叙述)の方法が、既に身についている。

のであろうか。この指導者たちのなかで、つぎのように述べている者がいる。


 文章表現とは個性的なものですから、個性を大事にしなければなりません。同じ題材で書いても書く子どもによって、表現のスタイルがちがいます。ちがっていてあたりまえなのです。書く対象が、書き手の内面をくぐって表現されるのですから、当然個性的になります。個性的にということのなかみは、省略、強調、誇張といったこともふくまれるでしょう。何れにしても、子どもの表現を大事にしながら根気よく指導を続けることです。

 大ざっぱに読み流すと、つい、うなずいてしまいそうだが、立ち止まって読んでみると、向感できるのは結びだけで、中心になる「個性的」のなかみを吟味してみると、そのずさんさは度を超えている。「省略」「強調」「誇張」の三つとも、叙述のなかでは、かなり進んだ段階の作法である。
小学校教師の多くは、子どもたちの表現の不足を如何にして指導するかに腐心しているのが現状である。これ以上詳しく紹介するいとまはないが、「子どもたちの表現物は、それだけで珠玉のようなものだ。よく作品の値打ちを問題にするが、子どもの作品には、すべてに値打ちがある」とも言い、ひいては、「推敵指導」を目のかたきのように否定する。さらには、「系統案」を毛嫌う。文科省が「指導」を悪玉とし、「支援」こそをと意気込む「ゆとり教育」と同根である。このフレーズの場あたり的な仮面の中は、見え見えである。


タランモンハタラントイワナアカン

 この大阪弁を何度開いたことか。
 このフレーズの使い手は、大阪の増田俊昭さんである。その場面は、日教組の教育研究集会作文教育小分科会であった。前述に類する“子どもの作品を宝ものとする”似て非なる子ども尊重論者が「子どもの書いたものは、からだの一部である」という発言に対して、「子どもにほだされ続け、
表現していないことまで深読みするのは、子どもの一生をダメにする」と前置きして

タランモンハタラントイワナアカン

ときびしく批判した 。毎学期末、常に100ページを超える学級文集を送っていただくが、増田さんの作品評、指導評語は、子どもの文章の構成、記述指導にとどまらず、つぎのような、ものの見方、考え方、常日頃の生活のしぶりにまでも及んでいる。

たとえだれに対しでも、人に向かつて「気持ち悪い」などというのはまちがっている。このことはお母さんのいう通りです。反省しなさい。ところで、このことと、あなたがほんとうに言いたいこととは、ちょっと話がちがうようだ。でも、お父さんと話をすることがなぜそんなにいやなのです
か。家族なのだから、コップぐらいいっしょに使ってもいいと思うけどなあ。 (後略)

 児童作品は、この指導語からおよそ察しがつくと思うので省略するが、見方によっては教師の介入のしかたについて、子どもの内面のごとまでと、眉を寄せる者もいるかも知れない。しかし、増田さんの文集を一冊読んだ だけでも、教師と子どもたちとの信頼関係が、いかに濃密なものかがわかる。彼は書く。

 うちのクラスの子どもたちは、いつも、先生や友達に対してだけでなく、どうどうと「自分」が「自分しか書けないつづり方」を「全国のみなさんあのね」の意識をもって書くように促しています。

 この「全国のみなさん……」というところに注目する。クラスの中だけに通じる文章ではない。もちろん大阪弁の通用する範囲だけでもない。視野は日本中である。それに見合う叙述 (単語の選び方、構成のしかた、文体まで含めて) は、丹念な指導の積み重ねが必要になる。からだの一部で
あろうが、宝ものであろうが、タランモンハタランのである。ここでは場あたりのまやかしは通用しない。


「足りないものは……」の元祖は

 1933年、国分一太郎 22 歳。今は東根市になっている山形県長瀞村の長瀞小学校に勤めて3年半たった。その年、千葉春雄が主宰する『教育国語教育』誌に寄稿した、

「綴方採掘期」 報告

のなかに、この文言がある。たぐい稀な思想家、理論家、作家、教育運働家等々、いろいろな顔を持った国分一太郎も、やはり人の子、教師としてのかけ出しのころは、人並みのつまづきの連続であったらしい。とりわけ、子どもたちの文章表現の稚拙さには骨を折った。

 この報告のなかに、後に「新しい綴方教室」付録の「子ども文章病院」の下じきになったとおぼしき、当時の子どもたちの文章の類型分析がある。

1、賞められた型。 2、帰りました型。 3、寝ました型。 4、学校に行きました型。
5、くやしくてごはんがうまくなかった型。 6、今でも思い出します型。

 このような作品について、題材価値、他の見方、考え方、生活のしぶりなどの指導をしながら、国分流にいうと「叱責と親密」を折りまぜ、やがて、概念的な表現を追いはらっていく。あまりにも有名な「概念くだき」の一歩が、この長瀞小学校で踏み出されたのだった。これを鉱石採掘にな ぞらえて、「生活からの綴方採掘の仕事は、少しずつ鉱脈に近づいて行くような気がした」と述べている。ここまでに、3年半を要したと考えていい。

 そして

 漸く足りないものは足りない、と言ってやる時が来る。今度は、生活を描きつくしたか。足りないかをぐんぐん指摘してやる事だった。その第一の方法は、子どもたちの提出した綴方をぐんぐん読みながら、赤いペンを持って、行間にどんどんと足りないところを書いてやるのだ。綴方用箋
の赤い字の方が多くなることさえあった。足りない所は、足りないとその場所に質問してやるのだ。

と、推厳の具体的な方法と、その重要さを強調している。このなかの「綴方用箋の赤い字の方が多くなることさえあった」というくだりは、国分一太郎の面白躍如で、戦後、科学教育でわれわれを大いに啓発してくれた小林実著『幼い科学者』のあとがきを思いうかべる人もいるだろう。国分の赤ベンが著者の字数よりも多かったというエピソードである。

 ところで、ここでの引用は、ほんの一部分に過ぎないので、誤解を招くおそれがある。国分が児童作品を「添削」したのではないかということである。これは、決してそうではない。「その場所に質問してやるのだ」という一行を心して読んでもらいたい。繰り返し念を押すが、決して、俳句
や短歌の宗匠が、弟子の句をズタ切りにする「添削 」ではない。

(この「報告」のこまごまとした指導方法は、その後の『みんなの綴方教室』正・続に受けつがれている。原型であるこの「報告」が手に入らない場合は、この正・続を参照されたい)


総合学習と生活綴方

 「総合学習」の実施が決まってから、教育現場の動揺、混乱は、耳にするだけでも、ぬきさしならないものを感じる。学校裁量、なんでもありなどと、例はよくないかも知れないが、「言葉巧みに言い寄られでも、ない袖は振れない」というところだろうか。こんなとき、「生活綴方の出番だ」などとことあげしているむきがある。戦後、風靡した「生活綴方的教育方法」をひっさげてのことである。

 しかし、“生活綴方によれば、どんなことでも、うまくできる”などという発想は、既に淘汰されている。各教科教育の内容、方法が整理され、それぞれに独自性をもって機能しているからである。

 日本語教育に限って述べれば、「言語教育」と「言語活動の教育」の両輪を、互いに相補いつつ、日本語の担い手として育てなければならない。綴方教育は、後者の「言語活動の教育」に位置づけられる。「生活綴方の出番」というキャッチフレーズふうのことはしりぞけたが、ここで行われ
る文字表現指導の成果が、「総合学習」をするにあたり、極めて有効、有用であることは否定できない。否定できないどころか、文字表現の上で、具体的な「もの」や「こと」 、言いかれえば「生の自然、社会、人間」を対象として迫り、とらえ、そこに、そのものの持つ意味や美しさをことばにしていくこと、それは、とりもなおさず、分析、総合の操作により認識を確かなものにしていくからである。したがって、私のまわりの綴方教師たちの「総合学習」は、その下に「……の試み」などと遠慮勝ちなタイトルにしているが、先輩たちの「調べる綴方」を中心とした、真に子どもたちの生活に根ざし、自主的で、積極的、能動的な活動をともなった実践に学んでいるため、いわゆるマニュアルに紹介されている先進実験校のそれとは一味も二味もちがったものを生んでいる。
(榎本豊「総合学習への試み一身近な人からの戦争体験を聞き書きする一」『日本の教育第 50 集』一ツ橋書房、66 頁を参照されたい) 。

                             〔初出: '01雑誌「解放教育 」12月号〕



綴方理論研究会で

綴方理論研究会『とつおいつ』の講義をする筆者(2009年10月18日)


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