『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

豊島作文の会 9月例会の報告(2012年)

豊島作文の会 9月例会の報告(2012年)

第471回 9月例会(9月15日)報告    2012年 10月1日

参加:土屋、加瀬(町田作文の会)、伊藤、富山、桐山、片桐、榎本(豊)、鈴木、寺木、榎本(典)、工藤 (11名)

《提案》
 『文集あれこれ』 
    
                     提案者   桐山 久吉 さん 

Ⅰ 桐山先生の座右の銘

 桐山先生のところには、うらやましいことに、

こらがかく

ふみのかずかず

よみあかぬ

ひとらのつどい

いつまでもあれ
          (国分一太郎)

という国分先生が書いた短歌が、額に入れられて飾られている。

 どのようないきさつで、桐山先生は、これを手に入れたのか?

 亀村五郎先生が、1979年の7月に、『子どもをはげます赤ペン《評語》の書き方』という本を百合出版から出しているのが、関係しているらしい。1980年の日本作文の会・岡山大会で、この本が、日本作文の会から表彰されるということになったという。
 
 表彰状は、野口茂夫先生が書くことになっていたのが、大会の二日前になり、野口先生が手の調子が悪くて書けないということで、急きょ、国分先生が、かわって書くということになった。

 桐山先生が野口先生のところに寄り、原稿文と表彰状の用紙を受け取って国分先生の家を訪ねていくと、墨をすって待っていた国分先生は、表彰状を書くのと一緒に、当時、組織部に在籍していた桐山先生に、「ご苦労様!」と、上の短歌を書いてくださったのだ。

 こうして、その短歌、今は立派な額に入って、桐山家の宝となっている。

Ⅱ 『不忘童心』を読んで
 (資料2)、(資料3)の作品は、亀村先生を偲んで作られた『不忘童心』(文集・半分は、自慧教師の会で亀村先生が話されたことをテープ起こししたもの)からとったもの。桐山先生は、《亀村五郎先生は、子どもたちの日記をおもしろいものという視点で見ている。書きぶりがどうこうでなく、すべて共感すると書いて、肯定的にとらえている。それが、子どもたちの見方、書き方を伸ばしている。日記指導が、生活指導にもなっているというのがこの資料から分かるのではないか》と指摘。
 
 この二つの資料、じっくり読んでいただきたい。



Ⅲ 『東京の子』第38集を読む                                     『木犀』(お孫さんの学校の全員文集・2011年度版)を
①書いた子はどんな子だろうか
②どんな学級(学校)なのか
③どんな子が友だちだったのだろうか
という観点(関心)で読んだのだが、『東京の子』(第38集)も、上の三つの観点で読んでいった。《いい作品がそろっているが、本が薄い。同じ指導者の作品がたくさんあり、少ない人たちの努力の結晶という感》、と前置き。その後、散文の作品に関して「子ども理解の観点から、子ども一人ひとりに焦点を当てて」(=富山)丁寧に分析が進められた。

Ⅳ 論議されたこと・問題となったこと
(1)共同研究の詩の評価が割れた…事実をきちんと書くことをもっと大切にさせるべきという意見と、それにしても、今の5、6年生の女の子たちの実態がもろに出ているという指摘。

『どうすればいいの』
「キーンコン カーンコーン」

チャイムが鳴った。

教室に入って友達の

なおちゃんと話そうと思った。

が、

いない!!

どこを探してもいない。

なおちゃんがいなかったら 

二十分休みはどうしたらいいのか      

給食の時にだれと手を洗いにいけばいいのか

五分休みはどうすればいいのか

いつもだったら

のんきに話している二人。

でも今日は

なおちゃんがいない。

なおちゃんがいなかったら

この先どうすればいいのか不安になった。

(なおちゃん早く来て!)

と 心の底から願った。 

              (5年 女子)    

    
(2)町田作文の会から加瀬真善美さんが参加。『東京の子』の選評(詩)を5年くらい続けているとのこと。長く選評者を続けていると、いろいろと大変なことがあるようで、あれこれ苦労話を聞かせていただいた。

(3)その他、子どもたちの使う言葉が貧弱になっている陰に、テレビからの影響があるのではないか。小さい子どもたちが、発達段階に見合わないテレビ番組を普通に見ている。子どもたちが見ているテレビ番組の中身なども、気をつけて見ていったほうがいいのではないかといったことも、話題になった。

(4)絵の上手、下手の話と、文章をあったとおり、見たとおりに書いていくこととの関連性とか、絵手紙の絵と短い一言の関係等、何やら、有意義で、おもしろい話も!
 
 加瀬さんによれば、《絵手紙は、絵が主人公ではない。絵は上手じゃなくていい、へたでもいいから一生懸命描いた絵があって、そこのそばに入る7文字ぐらいの短い一言が、「山椒」か何かの役目をして、すごく心を打つのだと思う。》ところが、《新聞とかに、絵手紙コーナーなどあると、スイカの絵を一生懸命描いていて、そのそばに、スイカがどうとかこうとか書いてあったりする。スイカの絵があるのだから、スイカがどうとかこうとか書かなくていいのでは。絵手紙にそえる言葉を考えるということは、詩の題名と本文の関係とちょっとつながるのかもしれないかなと考えている。》そいうわけで、《最近は、詩集を読むことにこっていて、詩を読むことに夢中になっている》、とのこと。こういった話も飛び出してきて…

盛会のうちに終了!
                                                   (文責:工藤)

 
(資料2)
る割には、あまり効果、がないなと思って、消えちゃうのです。

 初めに、「こうやってやるぜ」と思うのは、それ自体悪いことではないが、
その割には萎むのもはやいのが日記指導だと言う人がいますね。

 それから、もう一つは、そうなってくると、回りの仕事のバランスが悪く
なってくる。すごく日記指導がうまく調子よくいっている時には、回りの仕
事があってもできるんだけれど、そうじゃないと、今度は仕事が重くなって
くる。こんなに忙しいのにという考えを持ってくる。

 それでは、どうしたらいいかというと、ボクはやっぱり、三十一年間こう
続けてきてね、事実的に続けてきて、ああやっぱり、ポク自身のせいでない
かと思うのは、おもしろがっていることです。楽しんでいるということです。

 今日、ここに資料を出しましたが、もう日記を読んでいて、えらい、ボク
はおもしろいと思います。先生方はどう思うかしれませんが、二年生のタン
ジ ヤスオの一枚目を見てください。

 三月二日                 二年  タンジ ヤスオ

 学校からの帰り道、コヤマ君と、イサヤマ君といっしょに帰りました。アトリエの
前までくると、コヤマ君が、、
「イサヤマ、K子がすきなんだろう。」
といいました。ぼくもつられて、
「イサヤマ、K子すきなんだろ。」
といいました。イサヤマ君は、
「ちがうよう。」
といいました。コヤマ君は、
「かくさないで、かくさないで。」
といいまレた。ぼくは、ほんとにそうだ、まさか、イサヤマ君がK子のことすきじゃ
ないな。だけど、からかってやろう。イサヤマ君、からかうとおもしろいかもと思い
ました。とたんに、イサヤマ君が石をなげてきました。コヤマ君とぼくは、
「ひぇい。」
といいました。イサヤマ君がなげるのをやめて、ぼくがイサヤマ君のほうを見ている
と、コヤマ君がイサヤマ君に大きな石をぶつけようとしていまレた。ぼくは、まさか
大きな石なんかぶつけるつもりないなと思いまレた。でも、コヤマ君は、ころがして
足にぶつけました。イサヤマ君は、そこにたおれて、ちょっとないていました。

 ぼくは、なかなくてもいいのにと思いました。ぼくは、
「しんじゃった。」
といいました。イサヤマ君が立って、
「このやろう。」
といいました。それで、小さい石を、コヤマ君めがけてぷんなげました。コヤマ君は、
「ひぇい。」
といいながら、にげて行きました。ぼくも石をぶつけられないようにして、にげて行
きました。ぼくは、コヤマ君をさがしに行きました。でも、コヤマ君はみつかんなく
て、あきらめて帰りました。

 ぼくは、どっちがわるいんだろうと思いました。でも、ぼくの考えだと、どっちも
わるいでした。

 これを見ると、ボクはものすごくおもしろい。何度も読み返すぐらいにお
もしろい。というのは、まず、K子と書いてありますね。このK子というの
は、ボクのクラスにはいません。でも、もう二年生でK子と書いてあります。
 
 これは、子どもの知患なのです。先生に見つかると、やっぱり、K子とい
うのははっきりと書かないほうがいいなと思っているのです。

 その次におかしいのは、「イサヤマ、K子がすきなんだろ。」といいました。
ぼくもつられてと書いてある。これは、いいわけなのです。ちゃんと、前も
ってセッティングしておいて、ボクに怒られないように、つられてというの
は、
「コヤマが先に言ったんだそ。」
と言いたいのです。どっちが先に言ったのかが分からないからおかしいので
す。それから、コヤマ君が、
「ちがう。」
と言ったのでしょう。コヤマ君は、
「かくさないで、かくさないで。」
と言うのです。このやりとりは、もう子どもでないとできないやりとりです
ね。
「好きなんだろう。」
「ちがうよ。」
と言ったら、
「かくさないで、かくさないで。」
と本当のことを言いなさいと、ひやかしているのです。

 ぼくは、ほんとにそうだ、まさか、イサヤマ君がK子のことを好きじゃな
いな。だけどからかってやろう。

 イサヤマというのは、からかうと、すぐにかっとなる子どもだから、おも
しろいということです。そして、石をぶつけられて、石をぶつけっこして、
ころがされて、イサヤマは痛いと倒れて泣いていたら、死んじゃったという。

 これはよくラグビーで言うのです。だからおかしくてね。ラグビーで体同
士が当たってグーンと倒れて、脳震盪を起こして倒れる。すると、そばに行
って、
「ああ、死んだ、死んだ。」
と言うと、レフリーが怒ってね。
「なんていうことをいうんだ。おまえらは。」
とよくやるんです。ラグビーでは、倒れたやつを「死んだ」というのです。
そんなことを思い出したりして、おもしろいですね。

 それから、最後に、どっちが悪いんだろうと、分かりきっているのに、ひ
やかしたのが悪いのが決まっているのです。そして、どっちも悪いと言って
いるのです。

 やっぱり、ニ年生だから、結果で考えるのです。最初でなくて、おもしろ、
いですね。

 こういうのをおもしろいなと思えば、続くんですよ、日記指導というのは。
それでは、こういうおもしろいのを書かせるには一体どうしたらいいだろう
かというと、ほかの子は、こんなおもしろいことを書くかというと、そうで
もないのです。だけど、一回、日記を出してもらうでしょう。

 すると、二年生ですから、一週間に二回ずつ見ました、この時は。だけど、
高学年になりますと、一回出させて、十冊ずつですよ。

 飯田先生のところは、クラス何人ですか。ニ十七人でしょう。ニ十七人だ
ったら、三九 (さんく) 二十七でしょう。月、火、水でわかれて出せば、九
人ずつ見ればいいわけです、一日にね。一週間に一回見れば、九人ずつでし
ょう。ノートが九冊たまるわけです。

 その九冊の中から、何かおれを笑わせるようなものが出てこないかと、あ
るいは、ボクに考えさせるようなものが出てきはしないかと楽しみでしょう
がないのです。早くこの中を見てみたいとか、今度は誰がどんなことを書い
てくるだろうと、そういう期待が、まず最初になければだめなのです。

 それで、このイグチユウゾウ君は一年生です。これは、


 二月十九日                 一年 イグチユウゾウ

 学校のかえり、モリくんと、たからものをかくしました。たからちのとは、まっ
しろい石です。もうひとつは、おみくじです。どこにかくしたかというと、小さな木
の下の、つちの中にかくしました。そして、モリくんと、ぼくとのたからものにしま
した。そして、うちにかえりました。

 ぼくは、すぐ、モリくんらにいきました。モリくんちで、たからものをかくした
ところのちずをかきました。

 そして、ちずがなくなってしまいました。だけど、ぼくとモリくんは、じぶんで
かくしたからしっています。そして、たからちのをとって、うちにかえりました。



 なんていう、ばかみたいなことと思うでしょう。

 ボクは、これを見ると、自分の子どものころを思い出します。ああ、おれ
もこういうことをやったなと。

 第一、隠した宝物とは小さな石なのです。真っ白い石なのです。それを隠
して、二人で秘密にしようと、家に帰って、すぐにモリ君の家に行って、そ
して、モリ君の家で、地図を書くのです。

 自分で隠したのだから、地図なんて書く必要はないのに。やっぱり、宝物
の地図って何か魅力的で、でも、それを簡単になくしてしまうのです。なく
したまではいいのだが、すぐにまた、その宝物を掘り出してしまう。そうい
うのが子どもなのです。

(Ⅳ 日記指導を長つづきさせるには   94.5.10)




(資料3)

 十二月七日                 四年  カナイエリコ

 今日は、この間のお能を思い出して書いてみます。四・五・六年の生徒が渋谷の観
世能楽堂ヘ「安達原」を見に行きました。

 みなさん、ご覧になったことがありますか。渋谷の道玄坂を上がって行くと、右
側に、松涛というところがあって、そこに観世能楽堂があります。これは、立派な
ものです。それから、千駄ヶ谷には国立能楽堂がある。東京には、ニつ非常に大
きな能楽堂があります。

 私は、能楽堂ヘ一歩入ると、一番に自に入つだのが白洲でした。下の白い石です。
その上には、キラキラひかっている、とてもきれいな本ぶ台でした。かべに、えがか
れている松も、色がはっきりとでていまレた。ひのきでできたぷたいだそうです。キ
ラキうする木のかがやきは、なんでかなと思いました。

 橋がかりの下には、一の松、二の松、三の松があって、その小さな三本の松がぶ台
をひきたてているようでした。ほんとうの昔の家が前にあるようでした。

 そして、鏡の聞とつながっているまくは、赤、むらさき、黄、緑、白の五色で、き
れいにまとまってできていました。

 そして、席にすわりました。そして、安達原がはじまりました。

 はじめは、山伏が二人で、一けん家の女主人とはなしているところからはじまりま
す。

 女主人のお面は、悲しそうな表じょうでした。女主人が枠裃輪(わくかせわ)を回
している、ゆっくりとしている手が、なみだをながしているのをふいているすがたは、
ほんとうに、あわれにみえました。ただそれだけなのに、とても表じょうが表れるか
ら、能ってふしぎだなと思いました。

 それから、「自分のねどこを見るな」といって女主人が出かけて、山伏が、この家
は鬼女の家とわかり、とうとう鬼女とのはげしいたたかいがはじまって、女主人は角
もはえて、ほんとうにおそろしくなってでてきましだ。

 山伏たちも、じゅず玉でいのりながら、たたかっているすがたが、ぽんとにかんし
んしました。これが、いっしょうけんめいになっているすがたなんだなと思いまレた。
はげしい鬼女が、前は女主人だったなんて、信じられませんでした。

 はじめは、そろそろとした、ゆったりとした動きから、だんだんはげしい動きにな
ってきて、鬼女と山伏の心のたたかいは、私までむちゅうになってひきこまれてしま
いました。

 ふえとつづみとたいこのおはやレが、たかい音とひくい音をみごとに出しながら、
ぶ台をひきたてていました。つづみをうつ人の
「よ~お。よ~~~おっ。」
と、おなかのそこからしぼり出すような声が私の耳にのこりました。お能の歩き方も、
体を動かさないで、つまさきからゆかをひきずるように歩くのでした。

 けれども、しーんとしすまりかえっている会場にギシギシと橋がかりを歩くときは、
音がしました。ふつうとちがって、まくがさがらないで、一人ひとり静かにぶ台をさ
っていって、終わりになるのが、かわって見えました。

 終わった時、私はホッとため息をつきました。



 ほかの子どもも同じようなことを書いています。何人か書いています。ボクは、
これを読んで、中にはひどいものがあって、

 となりを見たら、亀村先生はねむっていました。だから、ぼくも安心してねました。

と書いてある子もいました。うそつけ、おれは寝ていないよというようなおもしろ
いことを書いている子もいました。

 カナイのようにずっと書いている子もいます。
このカナイエリコの感心したことは、お能の舞台のところを書くのに非常に分か
りやすく書いているし、色が、幕が赤、紫、黄、緑、白の五色でと書いている。ボク
は、
「書けと、言われると書けない。」

 お能の舞台の色を言えと言われたら、万歳です。緑は出てきますか、黒、白、
紫は出てこないと思います。それから、赤はありそうだなと言える。それから、
枠裃輪 (ワクカセワ) ですよ。彼女はパンフレットを見たのだろうと思います。

 それが、おかしい話があるのです。これを読んで、この字が読めない。『わくかせ
わ』ではないかと思うが、歴然としない。それでいいかどうか。ボクは、誰かに聞こ
うと思ったが、恐らく誰も知らないだろうと、みなさんは、どうですか。

 ボクは、片っ端から辞書を見た。家にも漢和辞典があったのです。あそこのでか

(Ⅰ 書くことを通して育てるもの 2001.2.1)

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