『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

豊島作文の会 9月例会の報告

豊島作文の会 9月例会の報告

《提案》
  『閑話休題・戦前の綴方に想う』
提案者     桐山 久吉 さん

1.戦前の綴方に想う.
桐山さんからは、いくつもの資料を使いながら、主に、鈴木三重吉による『赤い鳥』
の綴方について、三重吉の思想の紹介、『赤い鳥』の作品の紹介などがありました。
(1) 『赤い鳥』が創刊されたのは、1918年(大正8)年。
この頃の綴方作品は、一般的に、どういうようなものだったのでしょうか?

 なにしろ、それまで綴方教育というのは、明治後期の作文時代を惰性で継承していて、おとなの美文調の文型をまねるか、実用的な文型(書簡形式)や擬古文調の文型にあてはめる鍛錬主義か、が支配的であって、せいぜい進歩的革新的な主張として写生文の流れをくむ写生主義の綴方が一部に行われていたのが実体であった。
(「月刊 作文研究」No.1 『綴方運動史上における「赤い鳥」の意義』滑川道夫より)

・大人の美文調の文型をまねたものが多かった。

・課題を与えられて書くのが主であった。(芦田恵之助が、この頃「随意選題による
綴方教育」を主唱し、受け入れられ始めていた。)

・形式的、決まり文句的なことばをつかった通りいっぺんな意見表明、風景描写など
など、が多かったようです。

(2) そこに、鈴木三重吉は、

文章はあったこと感じたことを不断使っているままのあたりまえのことばを使って、ありのままに書くようにならなければ、少なくとも、そういう文章をいちばんよい文章として褒めるようにならなければ間違いです。
(『赤い鳥』創刊号)

として登場してきます。
 あったこと感じたことをあたりまえのことばでありのままに書かなくてはいけない
のだという主張は、当時、革新的な主張となりました。

(3) 豊田正子の『はだしたび』(『赤い鳥』に掲載されたもの、後には、『綴方
教室』?)の文章が紹介されましたが、「佳作」という評価にはなっていますが、生
き生きとした息吹の伝わってくる作品であり、これに対する三重吉の選評も大変迫力
を感じます。

(4) 三重吉がなくなる1年前の1935(昭和10)年に書かれた『綴方読本』下編
「綴方と人間教育」も資料として紹介されましたが、70年以上も前の文章とは思え
ない、説得力のある文章だなと感じました。

1)綴方の教育的意義…

私の綴方教育の目的は、かかる製作の収穫それ自身に終っているのではない。綴方を芸術製作の教課としてのみ見、芸術的な作を上げるのを終極と考えるのではない。私は、作品の芸術的価値は第二として、そういう価値ある製作品を作り出すに至るまでの練磨によって、物の批判の正確さと、感情の細化と、感覚の敏性とを得る、その効果とに…第一の重点をおくのである。つまり綴方という芸術の製作によって…人間性の向上を企図するのである。

 
2)展開記叙と総合記叙…現在、日本作文の会などで、展開的過去形表現とか、総合的
説明形表現とかいうことばを使っていますが、その元となることばでしょうか。

3)徹底した作品分析…「綴方の教育的意義」を説く中で、『父のこと』『ちんどん
屋』等の作品について、作品分析が非常にていねいに行われています。このような分
析の仕方は学ぶべきものが多いのではないかなと思います。

*桐山さんによると、この本は、講談社学術文庫として出されているということなの
で、アマゾンで調べてみました。そしたら、中古、発見。(購入です!880円、
送料250円。10月6日に届きました。)

*鈴木三重吉のことばは、私の中にすんなり入ってくるのです、と桐山さんは話して
いましたが、本当にそんな感じがします。鈴木三重吉の『赤い鳥』綴方は、生活綴
方の潮流の中で、やがて「受け入れられなくなっていく」わけですが、三重吉自身の
文章は、しっかり読んでおく必要があるのではないかと思われます。

(5)生活綴方の台頭…《綴方は芸術作品である》とする鈴木三重吉の『赤い鳥』綴方
では子どもたちを救い上げることができない、綴ることを通して生活にしっかりと
向き合っていく力をつけていかなければならないとする生活綴方運動が全国的に拡が
り始めます。

《参考》
1)鈴木三重吉『赤い鳥』 1919(大正8)年~1936(昭和11)年
2)小砂丘忠義『綴方生活』1929(昭和4)年~1937(昭和12)年
3)成田忠久『北方教育』 1930(昭和5)年~1936(昭和11)年

(6) 小砂丘忠義の『綴方生活』、成田忠久の『北方教育』等も、資料紹介がありまし
た。
こういう資料を持っている桐山さん、うらやましいです。『北方教育』の資料では、
成田忠久の「後書き」を読むことができましたし、『職業』(高二 佐藤 サキ 
:鈴木正之指導)という綴方を通しての議論の様子なども、資料から読み取ることが
できました。『綴方生活』も『北方教育』も、国分一太郎が熱烈に愛読し、投稿を
していた雑誌です!

(7) 鈴木三重吉は、小砂丘忠義の『綴方生活』などもしっかり(?)読んでいたよ
うです。その上で、次のような批判をしています。

「綴方にあらわれた事実について、児童の思想、行為、を是正し、よりよい人間に誘
導するというのだから、至極結構である。」しかし、「生活の実践指導だけの着目の
みで、作らせている実作そのものには、一つも芸術的なものを生み出しえない」とす
れば、それは、「教課として完全」とはいえない、と批判をしている。
(「綴方の教育的意義」P139)

 三重吉という人は、かなり気性の激しい人だったようで、生活綴方批判も、かなり
激越だったようです。気に入らないと、本を壁にたたきつけるとか。そのへんの詳し
いエピソードなど、桐山さんにまたいつか話していただければと思います。

2.話し合いで出たこと
・いい資料をいっぱい持っていてうらやましい。

・作文と綴方のちがい。

・「綴方の芸術的に優れた作品」ということばがでてくるが、芸術的の意味は?

・鈴木正之さんが秋田大会の北方教育分科会に来ていたこと。国分先生が亡くなる2
年前のこと(1983年?)。国分先生と鈴木正之さんは同い年くらいか。

・墨田区緑小でのこと。図書室に、『赤い鳥』が全部あった。緑小の子の作品が三つ
あった。今から70年以上前のものか。

・『職業』の作品すごい。

・日記指導の歴史、知りたいね。

・「一つも芸術的なものを生み出し得ないでは、教課として完全な意味がない」とあ
るが、では、生み出し得たものとは? →豊田正子のようなものを文学的な作品と。

・恵那の教育について。

・日本作文の会。研究会での提案のあり方。日本作文の会は、書かせることをどうと
らえているのか。どんな考えで書かせているのか。大会の要項等、系統案とかそのよ
うなことが分かる資料がない。指導過程等が分かるようにしていかなければ。

・だれにでもできる作文教育、田中氏のものを広めていかなくてはならないですね。

                                           (文責:工藤)

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