『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

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「私」と国分一太郎』(『「私」と作文教育との接点』)

私の歩み(概略)

 私と国分一太郎または、「作文教育」との接点を語るために、私がどのよう
な歩みを続けてきたのか、簡単に記しておきたい。

 これは、私自身の記憶の整理のために必要なものである。
 
 ところどころ脱線するが、ご容赦。
 
 あと、記憶が整理されていくと、どんどん記述が変更され、 増えていくこ
ととなるだろう。
 

  • の部分は、個人的な記録。または、脱線部分である。
     
     

(1)「北区」時代

私が教員になったのは、1973年(昭和48年)の春、23歳だった。

東京北区の小学校に赴任し、8年間を勤める。

下町の学区で、先輩の先生たち、保護者の応援を受けながら、新任時代を過ごす。

  • 1977年(昭和52年)5月14日、結婚。

4年生で教えたAさんが卒業記念文集に書いた『夕焼け空のこいのぼり先生』
が記憶に残る。

  ◆柏の会 (2012年6月2日、土曜日) 
 
 大宮の「一の家」で、この当時の仲間の会、「柏の会」があり、参加してきた。私にしてみれば、三十年ぶりくらいの会である。

 当時の教職員の名前は、すらすらと出てくるので、みんなの顔はすぐ分かるだろうと思って出かけていったのだが、これがとんでもないことであった。

 名前、顔が一致しない。まさかつくづくと顔を眺めて、誰だっけなんていうわけにはいかない。冷や汗ものだった。

 「ツクツクポウシ」の鳴き方を教示してくれた、あの日比茂樹さんも、最初は、誰か分からなかった。日々の深酒で、脳が弱ってきているのかなと、本気で心配になったのだが。

 日比さんは、同人誌『牛』で、今も活躍していることが分かった。

 続く

上の「ツクツクボウシ」の鳴き方にに関しては、こちらを参照!

 「北海道のセミ」


(2)「豊島区」時代

1981年(昭和56年)の春、31歳で、豊島区に異動。

  • 異動前の3月27日、長男誕生。

異動したこの年、1981年の秋だったと思う。豊島区教職員組合の定期大会
でU氏と知り合いになり、U氏の関係から、「滝の会」に参加するようになる。

この「滝の会」は、豊島区の小中学校の教職員有志の集まりで、組合運動・労
働運動の闘士や教育実践のエキスパートなど、かなり革新的な人々の集まりで
あった。

池袋の喫茶室「滝沢」を会場にして、週2回、研究会が行われていたことから、
「滝の会」と命名されたらしい。

この「滝の会」のメンバーに、作文教育の熱心な実践者E氏がいて、このE氏
から「豊島作文の会」を紹介され、この会にも通うようになる。

綴方理論研究会」の存在を知らされたのも、この頃だったかも知れない。

いずれにしても、作文教育にかかわりを持つようになったのは、この時期から
だった。

  • 1983年(昭和58年)11月3日、長女誕生。

1984年(昭和59年)6月、「第3回山形県作文教育研究集会」に、綴方
理論研究会のメンバーと共に参加。

綴方理論研究会そのものには、恐れ多くて通ってはいなかったと思う。

豊島作文の会の方には通っていたので、「お前も来い」ということでE氏が誘っ
てくれたのだろう。

国分先生が1985年2月12日、ご逝去。

  • 1988年(昭和63年)11月23日、父64歳で死亡。
    勤労感謝の日である。二度目の心筋梗塞の発作だった。
  • ちなみに、翌1989年(昭和64年、平成元年)、『川の流れのように』
    という名曲を残して、美空ひばりが52歳で亡くなっている。

豊島区には、9年間勤めた。

(3)「国立市」時代

1990年(平成2年)40歳で、国立市へ異動となり10年間勤務。

革新的な国立市民の息吹きをあびることとなる。

U氏が委員長の「国教組」の旗のもとに、「国立の教育」のすぐれた実践を学
び続けることのできた時期でもある。

2年生のH君が書いた『イモリ』と、6年生のSさんが書いた『私の妹』が印象
に残っている。

国立に、「日の丸・君が代」問題で、右翼からの攻撃が激化する年の春、転勤
が決まる。

(4)「東久留米市」時代

2000年(平成12年)4月、50歳で、東久留米市に転勤、3年間勤務。

豊島作文の会」や「綴方理論研究会」には参加したり参加しなかったりし
た時期が何度もあるのだが、この頃は、まじめに通っていた時期か。

2003年(平成15年)春、教職30年終了を機に、早期退職を選ぶ。
53歳の春である。

(5)退職後

退職後、2年間ほどは会に参加を続けていたが、2006年(平成17年)春から、
NTTの下請けの仕事をするようになった。

光ケーブルを敷設するルートを見つける仕事なのだが、休みが取れない仕事で、
しかも、夜遅くまで、報告の図面作りがあるという、きつい仕事だったこともあり、
だんだん二つの会から足が遠のき始めるようになる。

それで、2年間くらいのブランクかな。

この2年近いブランクの後に、2008年8月、私は、連れ合いと共に、山形
県東根市を訪れることになる。

2008年8月2、3日、国分一太郎の故郷・山形県東根市を訪問。

なぜ東根市に行くことになったのか

何のことはない。
8月3日(日)宮城県石巻市の「鮎川」で行われる「牡鹿鯨まつり」の取材
をするためだった。

私が主宰しているホームページ(『故郷・北海道の物語』
「捕鯨問題」を取り上げているのだが、それに関連して取材をした記事を書き
たかったのだ。

『クジラの刺身』 / 『魚料理そして鯨』

3日実施の「牡鹿鯨まつり」に丁度いいように、途中、どこかで観光していこ
うということになって、次のような日程をたてたのだ。

  • 1日目(8月1日)、福島県会津若松市で宿泊(会津東山温泉くつろぎ宿 
     不動滝)。
  • 2日目(8月2日)、会津市内を観光した後、山形県東根市へ。
    さくらんぼ東根温泉、よし田川別館に宿泊。
  • 3日目(8月3日)、午前中、国分一太郎に関連した場所を見学した後、
    宮城に向かう。宮城県石巻市、鮎川で「牡鹿鯨まつり」を取材。「後山荘」に宿泊。
  • 4日目(8月4日)、栃木県那須塩原市で宿泊(塩原温泉、ホテル八峰苑)。
  • 5日目(8月5日)、塩原温泉周辺観光(箒川沿いの遊歩道、七ツ岩、七ツ
    岩つり橋等)。帰還。

山形、一日目
8月2日、さくらんぼ東根温泉「よし田川別館」に宿泊。旅行雑誌の「ゆこゆこ」
に載っていた「2000年の古代檜の湯船」という、うたい文句に惹かれ予約を入
れておいた宿である。

山形、二日目
3日は、午前中いっぱいをかけて、国分一太郎に関係する場所を見て回った。

「東根市東の杜資料館」を訪問。

東の杜資料館

管理人さんが、詳しく展示資料の説明をしてくれる。

資料館内の「国分一太郎資料展示室」も見学。

展示室の入り口


展示室入り口の看板


入り口に飾られた国分一太郎の写真




展示室内の中の一枚の写真

1984年6月、「あらきそば」での写真。

国分先生、73歳。

国分先生がなくなられる一年前の写真である。

「あらきそば」にて

蕎麦や銚子のならんだテーブルの中心に国分先生。

テーブルの左側、奥から乙部武志先生と山崎さん、右に榎本豊さんと、もう故人
になられているが武田さん。

実は、この時、わたしも同席していたのである。

残念なことに、武田さんの手前に、わりばしを持っている右手だけが写っている。

この右手の主が私なのである。

これは、象徴的なことだなと思う。

早くから(1981年以降)、豊島作文の会綴方理論研究会に参加を許され
ていながら、その後、会から次第に遠ざかっていくことになる私へのバツ
なのだ。

「国分先生の弟子、三代目」

などと、自称しながら、「学び」を続けなくなっていく私の姿を暗示している
写真なのである。

話が前後するが、国分先生が亡くなられて何年かあとのこと。

東根市に「国分一太郎資料展示室」が完成した年の「こぶし忌」の時だったと
思う。

資料室を見学しながら、この写真の前で、右手だけしか写っていなくて残念至
極という話をしていたら、

「これは、私が撮ったんだよ。」

「・・・・。」

この写真の撮影者は、田中定幸氏であった。

1984年6月に、「第3回山形県作文教育研究集会」がクアハウス碁点を会場に
開かれたのだが、集会の前日に着いた綴方理論研究会の面々を、国分先生が
わざわざ「あらきそば」に案内して下さったのだ。

この写真は、その時の記念写真なのである。

「第3回山形県作文教育研究集会」では、国分先生が記念講演をされて、その後、
綴方理論研究会で一番年齢が若く(といっても、34歳だったが)、新米の
メンバーである私に、「東京から参加の教員」を代表して挨拶をしろという栄誉
が与えられた。

私は、大学時代から「嗜好性睡眠症」というあだ名がつくくらい、居眠り魔で
あった。ゼミ中にも、コックリ、コックリをはじめてしまうくらいだ。


そんなようなことを前置きしながら、実は、今日も国分先生の講演を聴きなが
ら、居眠りをしてしまったんですというようなことを話した時、国分先生がギロッと、
私に目を向けたのを記憶している。


*ああ、私は、こんなことを挨拶で述べてしまったことを、 今、とても悲し
く思う。
2009年10月24日(土)、第三回 国分一太郎「教育」と 「文学」研究会で、乙部
武志先生が「国分一太郎先生に学ん だこと~つれづれに~」と題して、講演を
されたのだが、 その資料の中に、私は、「大変なもの」(注1)を見つけてしまった。

私の人生を象徴している事態だろうと思う。

ちゃんとした取材目的を持って訪れていないからだろう。館内を漠然と写した
写真しか残っていないのが、今から思えば悔やまれる。

東根市立東根小学校校庭の大ケヤキ(樹齢1500年以上)を見に行く。
大ケヤキの前に、白い帽子をかぶった姿で、後ろ向きに写っているのは、この
旅に同行した私のパートナー。

東根小学校校庭の大ケヤキ

東根小学校は、国分先生が、小学校時代に通われた学校である。

本当は、この小学校の中にも、国分先生の資料室があるのだが、見学の申し込
みをしていなかったので、ケヤキを見た後、国分先生のお墓へ向かった。

記憶をもとに、国分家の墓を探すが、迷ってしまい見つからず。

農家のおじいさんに尋ねると、自転車で案内をしてくれた。

年季の入った山形弁。

かなり、見当違いなところをうろついていたようだ。

畑の中に、たしかに見覚えのあるお墓。

国分家の墓


国分家の墓

畑の脇に咲いていた黄色い花を供えてお参りをした。

東根市を訪れるのは、はたして何度目だろう。
国分先生がお元気だった頃に一度、「第3回山形県作文教育研究集会」の時が
最初だろう。

国分先生が亡くなられてからは、毎年6月に開かれる「こぶし忌」に何度も参
加してきた。

「こぶし忌」を終えて帰る日には、綴方理論研究会のメンバーが三日町にある
ご実家に招待をされて、おいしい料理をご馳走になったのを覚えている。

私がとりわけ気に入ったのは、カスベの煮物だった。

北海道などでは、カスベの煮物といえば、生のカスベを煮てつくるのだが、山形
では、乾燥させて干物になっているカスベをもどして、煮物として料理するよ
うだ。

豊島作文の会」、「綴方理論研究会」から足が遠のいてから、2年は経つ。
当然、毎年、東根市で行われる「こぶし忌」からも遠ざかっていた。

そんな中、ひょんなことから、今回の東根市訪問となった。

豊島作文の会」や「綴方理論研究会」との関連でなく、まったくの個人とし
て訪ねたのは、この時が初めてである。

会への復帰のチャンスが

この旅から3ヵ月後、前後して二通の手紙が届く。

一通目は、榎本 豊氏から。

〈親友だから書く、会に出て来い、出てこないなら会費だけでも払うべきだ〉と
いう文面のメモのついた「綴方理論研究会」の案内状。

二通目は、田中 定幸氏から。

『第2回 国分一太郎「教育」と「文学」研究会・学習会』の案内状である。

2年以上も音信不通状態の私に、もう一度、「綴方理論研究会」への案内状が
送られてきたのである。

会への復帰のチャンスが与えられたのである!

私は、2008年11月15日(土)、喜び勇んで、『第2回 国分一太郎「教育」
と「文学」研究会・学習会』の会場である豊島区立池袋小学校へ向かっていた。

「迷える子羊」の帰還のように。

いや、「老いさらばえた迷い羊」の帰還と言った方がぴったりか。




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