生活綴方運動の旗手であり、児童文学者、教育評論家、教育運動家でもあった国分一太郎。その国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと。それが、このホームページの大きな役割の一つである。

蕎麦切

蕎麦切



 奥羽線楯岡駅から西へ最上川をわたってすこし行く大久保の「そばきり」の名人芦野勘三
郎じいさん、あとつぎの又三・能子夫妻と親しくしてもらっている。「そば」を食べにはじめ
てよって以来二十年のつきあいである。それに昭和五年はじめて教師になり、心のあう同僚
であったから、その後つきあいを断たない東海林隆君が、又三氏農学校時代の教師だったとい
うので、いまは自動車学校の校長をしている同君といっしょに、年に、五、六回はかならず
そこを訪ねていく。

 あまり行かないと又三氏の方から、病気ではないかとのハガキがくる。ワラ屋根の入り口を
はいったすぐのところのいろりに炭火が赤くおきている。そこにすわった勘三郎じいさんが、
私のあいさっする頭を、「お前のあたま、カッパのようにまんなかだけはげたなあ」とこのごろ
いう。自分はつるりとはげて、おまけにこのごろその中身も弱ったようすなのが残念だ。

 ここに来て、私がまなぶのは、あとつぎ又三氏の守旧のこころである。又三氏はおごらない。
ここの「そば」がどんなに有名になっても、家を店風につくりかえたりは決してしない。百姓
家の格子障子のある普通の座敷で、昔風の「板そば」だけをくわせる。このならわしをその
まま守っている。いつ行っても座敷が改造されたりはしていない。外便所だけがきれいにでき
ている。その便所を私はほめる。それといっしょに、そばのなかみが、おじいさん以来の秘訣
のままなのを私はよりいっそうほめる。

それ以上に、私は、そばをゆであげるかまの、その下のかまどの「おがくずがま」であるこ
とをほめる。朝早く起きて、まずやることが、そのかまどにおがくずをつめて、どんどんつき
かためることだと能子さんがいう。そのつきかために使う、昔の餅つききねが、だんだんやせ
細っていくのを、この家に行くたびに、私は見せてもらう。そしてガスも石油も電気もつかわ
ずにゆであげた「そば」のうまさを、いまさらのように味わう。
こう有名になると、「なかみ」はともあれ、「つゆ」がまずいというひとがあるかもしれない。
それを心配して、東京にいる私は、そばのことについて書いた本が出ると、すぐ購って又三氏
に送ってやる。それを又三氏が参考にしているかどうかは知らない。が、あの「あらきそば」
の「そばつゆ」が日本のどこの「そばつゆ」よりおとっているとはけっして思えない。ほれあ
った同士のほめすぎであるのだろうか。
                                                 (1974年) 

      

                          
 この小文をかいでしばらくたったあと、当の「あらきそば」を訪ねたら、勘三郎じいさんは
なくなっていた。昭和四九年五月二十九日とのことである。おどろいて仏さまをおがまして
もらい。位牌を見れば、そこに「蕎月軒勘光道忍居士」と記されてある。村のお寺の住職で、
前に村山市市長もなさった伊藤好道氏が、つぎの白居易の詩からとって贈られたという。

村夜
霜草蒼蒼 蟲切切
村南村北 行人絶
独出門前 望野田
日明蕎麦 花如雪

 岩波書店の『中国詩人選集』のその部分をひらいてくれた息子又三さんと、この詩の美し
さとしずけさをおもいながら、哀悼の意を表した。
かつて佐藤垢石氏に、「そばきりの名人」として絶賞されたこのひとも、とうとうなくなって
しまったのである。しかしこの法号も、そのもとになったという白居易の詩も、あのじいさん、
この藁屋根の家、周囲の自然風景に、なんとふさわしくできていることか。
やがて息子又三さんは、あらためて、いずまいをなおすようにし、そばに寄りそってすわった
能子夫人とこもごもに、いつもの静かな口調で話しはじめた。
「先生に、おわびをしなければならないこと、あるのよっす」

 おどおどするおももちでかたることは、つぎのようであった。
せっかく書いてくださったけれども、あれはつづけられなくなった。ちかごろオガ屑を買いいれ
ることが、むずかしくなり、そばをゆでる湯をわかすかまどに、それをもちいることができな
くなった。わたくしたちも残念なんだけれども、どうしようもない。
「先生、どうか、ゆるしてけらっしゃい。そのかわり、プロパンガスの火のもやしかたに注意
して、いままでと、けっして変わらない、そばのゆでかたをするつもりだからっす」

 外材などの輸入で、オガ屑のでる製材所が、だんだんすくなくなっていたのに、こんどは、
そのオガ屑を、なにかのキノコ栽培のために、遠い他県から買い集めにくるものがいて、つい
に入手できなくなったのだという。
又三さん夫婦はそのオガ屑がまをほめたわたくしに、おわびをせずにはいられないのだという。
ほんとにもったいないことである。
わたくしは、おふたりの純粋きわまりない心根に感動し、
「いいえ、いいえ」
というよりほかはなかった。
 それから、いつものミガキニシンの味噌煮で、お酒をごちそうになり、前とかわらぬ歯ごた
えと味わいの「そばきり」に腹をふくらませて、日ぐれ近くに、その家を辞した。

 帰途も、白居易のあの詩と、法号とを口につぶやかずにはいられなかった。
                                        (1980年)

                      『いなかのうまいもの』( 国分一太郎著・晶文社)より


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