生活綴方運動の旗手であり、児童文学者、教育評論家、教育運動家でもあった国分一太郎。その国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと。それが、このホームページの大きな役割の一つである。

東北ズンミン共和国

東北ズンミン共和国

 「落顎記」をありがとう。よい原稿でうれしかった。ところで、きょうはおわびをしなければな
らない。伊藤整君といっしょに、「小学校の先生にも、こんな文章をかくひとがいるんだね」と
喜んでいたんだが、そのあと、あの原稿をどこかに見失ってしまった。まことにすまないが、も
う一度かいてもらえないだろうか。なんとかたのみます……。


 こんな内容の手紙が、百田宗治氏からきた。1936年の春のことである。わたくしが、百田宗
治氏編集の綴方教育雑誌『工程』に、なにか随筆をと頼まれて、国語読木の「加藤清正」を教えて
いるとき、アゴを落した話を書いた。その原稿を、どこかへなくしてしまったというのだ。しかし
そのとき、わたくしは、もう一度その原稿を書く気にはならなかった。それよりも、めっぽうに腹
をたてていることが、こちら側にあった。

 一昨年の春、高等科二年を卒業して、ことしまだ雪のあるうちに、東京へとついで行った寒河江ムツが、離婚になって、村へ帰ってきたという。しかもその離婚にされた理由が、ズーズー弁のせいだという。寒河江ムツは、近くの東根駅には降りず、そのつぎの楯岡の駅から、家につくなり、泣きつづけで、外へも出ないで、じっとしているという。追いかけて、東京からは、彼女の持っていったタンスや鏡台や下駄箱やフトンが、送り返されてきたという。

 「あの野郎、ナズナ(どんな)上等な東京弁ば、しゃべってござらっしゃるのか?」
 学校の小使いの銀蔵おやじが、やたらに怒っている。追いだしてよこした男も、この村出身で、
いまは浅草あたりの炭問屋の第一の番頭をしているという。

 「あのクソたれ野郎め、授業中、よーぐ、ピタクソむぐして(もらして)、おれ、なんべん始末してやったかわがんなえ」
 銀蔵おやじは、舌うちしながらどなりちらす。その男をわたくしは知らない。けれども寒河江ム
ツの悲しみをおもうと、小使いおやじの怒りにもさそわれて、その知らぬ男に、やはりにくしみを
覚える。同じズーズー弁の土地で育った仲間ではないか。どうして「アノナレ」とやさしくしてやれないのか……。

 寒河江ムツは、わたくしの受持ではなかった。尋常五、六年のころから、女の組でドッジボールに、むやみに強い子として知っていただけだ。赤い鉢巻を、目がつりあがるほどかたくしめて、ヒューッと投げてくる球が、女のものとは思えぬほど強かった。わたくしも、それをためしに受けてみて、びっくりしたことがあった。こっちが投げてやると、その気のつよさも示して、まともにポ
ールヘぶつかってきた。

 それが、ズーズー弁だときらわれて、泣いて故郷へ帰ってきたという。この村育ちの夫である男
は、そのズーズー弁のどんなところが、妻としてそばに置きたくないほど、気にくわないというのか?

 わたくしは、寒河江ムツの離婚事件のことをたねにして、「ズーズー弁記」という短い随筆をか
いた。それを、「これでかんにんしてください」と言いそえて、百田宗治氏のところへ送ってやった。

 見失ったという原稿は、あとで発見されたらしく、予定の雑誌にのり、「ズーズー弁記」のほう
は、百田氏が別に主宰する詩の雑誌『椎の木』にもらいたいとのことで、それに掲載された。

 その翌年の夏に、わたくしは、自分のかわりに父の職をついでくれた弟に死なれ、自分もそのあ
と、ひどい不眠症にかかって、学校を休職した。そしてその翌年三月には、友人たちが、療養費の
ために出してくれた「教育実践記録」的な本のことで、県の労務課からクピにされた。この本に娘
身売の悲惨さや、国語国字合理化問題などを書いているのが、アカくさくていけないとのことだっ
た。

 1941年、真珠湾襲撃直前に、わたくしは検挙され、その他とともに、前記『椎の木』も押収
された。そしてそれに掲載されている「ズーズー弁記」という随筆も、


――百田宗治主宰の雑誌「椎の木」に、「ズーズー弁記」なる随筆を寄稿し、そのなかで、半封
建的な政治・経済・社会状況・文化環境のなかで成長した東北農民の娘が、自分たちの非文化的
な方言を、都会生活になれて小市民的に変容しつつある夫にきらわれ、ついに離婚されざるをえ
なくなった事実を記すことによって、プチブル的・ブルジョア的なものへの農民の反抗の必要を
示唆し、もって革命の主動力たるべき労働者階級の同盟者たる貧窮農民の意識培養に資し……
と、その他のものとともに、治安維持法違反に問われるように、むりじいに解釈された。つまり
「落顎記」の筆者であるわたくしは、こんどこそ木当に、ズーズーとは言え、ものをしゃべるのに
必要な自分のアゴを、権力によって、ガクリと落されてしまったのだった。


 二年一カ月の刑務所生活から出ると、わたくしは、世話をするひとがあって、東京芝区三田にあ
る印刷機械製造の会社に就職した。そしてほどなく、鹿児島県と山形県からつれてこられた四十幾
人の少年見習工たちといっしょに寄宿舎でくらすことになった。

 そのとき、わたくしは、第一におどろいた。同じように、わかりにくいといわれる言葉を持つのだが、鹿児島から来た子どもたちはちがっていた。故郷を出るときに、あらかじめ訓練されてきたのだろう。「はい」「いいえ」「なんですか?」「もう一度いってください」こういうことばを、教科書風に、かん高く言って、うけこたえたり、質問したりし、自分たちのことばに、劣等感というものを持たないようだった。便所をよごすくせがあるので、ひとから聞いていたように、「セゴドン(西郷殿) が泣いてるぞ」というと、「ハアイ」と返事をして、そのあと、しばらくのあいだは、便所をきれいに使った。

 これに反して、山形から来たものは、オドオドしていた。自分たちのことばに劣等感を持ち、ひ
とに何か言われて聞きとれぬときも、「え ?」とか、「何ですか?」と問い返すことはできなかった。見習期間がすすんで、機械のそばにつくころも、自分がやった旋盤のバイト (刃もの) をつける段取りを、「これでいいでしょうか」と、はたにいる先輩にたずねることさえできかねていた。その
ためあやまってケガをするものは、山形のほうの子に多かった。

 東北から、東京へ女中にくると、一週間目に、目方が一貫匁 (3.75キロ〉はへるといわれて
いる。その原因の主なものは、言葉についての心配なのである。ハキハキと物をいわぬから、東北
出身のものは、はじめのうち、グズだと思われてしまう。電話のある家に来たら、それこそ大変。
「電話に出るのは死ぬほどきらいだ」と、彼女たちは口々にいう。

 ドンプリや皿を洗っても、はじめのうちは、
 「これは戸棚のどこにかたづけるのですか?」と、その家の主婦に、思いきってたずねることが
できない。うろうろしているようでありながら、じっさいは、口のなか、心のなかで、たいへんな
カンナンシンクをつづけるのだ。
 「カイズば、戸棚のドコサ、カタヅケタラ、ヨカベナッス?」
 「カイズば( これを )」以下のコトバを標準語にホンヤクする精神的作業を、いきつもどりつして
くりかえしているのだ。しかしそれはその家のひとにはわからない。そういう状態のところヘ、パッととがめのことばをかけられてしまう。

 「なにしてんですよ?」
 その声におどろいて、ドンプリや皿を、手からと落とし、割ってしまったりする。

 このようなことの連続で、とうとういたたまれず、いなかへ逃げ帰ったという女の子もある。そ
れと同じような姿を、少年工たちにも見て、わたくしは悲しくなる。わがこととして悲しくなる……。


 同じことが、わたくし自身にも当然ある。戦後、わたくしは、全国各地を、講演だ、座談会だといって、まわり歩くようになった。話は気をつけて、教科書ことば風に、方言の単語を使わずにす
るのだが、人びとはすぐ、そのナマりや調子に気をとられてしまう。講演のときなど、ひとことふ
たこと、しゃべりはじめたと思うと、列の前のほうで、
 「あら、やっぱり」
 「ズーズー弁ね」
とでもささやいているように、ふたりの美しい女教師が、ひじをつつきあってニヤニヤしたりする。

 「コンドモノキョウイグか?」
廊下でわたくしの前を行くひとが、こんな誇張した口まねをしているのを耳にすることがある。
 「東北の発音は、なかなか直せないもんですか?」
と自の前でたずねるひともある。このようなとき、わたくしは、
 「学者のしらべによると、十二歳ぐらいまでその土地で育てば、もうなかなか直せないそうですね。わたしなど二十六歳まで、あちらにいましたからね」
と答えて、ちらりと相手の目をにらみつける。
こっちが「コドモ」(ko do mo)と言おうと意志的につとめても、身にくっついている鼻や舌や歯が「コドモ」(ko ndo mo)と先走りに言ってしまっている。

 そのどうしょうもなさを、このひとたちはわかってくれない !

 だからわたくしは、
 「先生のあのなんとも言えない東北弁の調子がいいですね」
などとほめられでも、ちっともほめられた気はしない。それは、できるだけ東北方言の単語を使わ
ず、その特有の文法的語尾変化の例を用いず、「板」を「エダ」などと発音せず、気をつけて「標
準語」で話をしていると思っているのに、ただ、その生理的ともいえる発音のナマリと、無アクセ
ントと、調子 (イントネーション) のことだけで、「東北弁」といっているからである。

 わたくしたちが、関西の「ト抜けのことば」 (たとえば「苦しい、苦しい、ゆうて」など)を、
すこしもとがめないし、見さげたりもしないのに、人びとは、気を使って話す東北人のことばを、
たちまち「東北弁」などと言い放ってしまう。

 「おたく、東北の人でっか ? 」
 飲み屋などでも、そばに腰かけている見知らぬひとが、急にたずねたりする。まるで外国人あつ
かいなのだ。

 こんなことがかさなると、わたくしは、なんとなく「東北独立」の運動を起こしたくなる。東北
ズンミン共和国でもつくって、くったくなくくらしていきたい気持にもなる。そして、この運動を起こすことは、日本国憲法違反になるのかしら ? などと、本気になって考えてみたりする。

 あるとき、そういう気持を、なにかの雑誌に書いたこともある。そうしたら、それはすぐ、言語学者柴田武氏にとりあげられて、「方言コンプレックスのために、東北独立をくわだてたくなるというひともある」と、公に登録されてしまうしまつとなった ( 岩波新書『日本の方言』を見られよ)。

 こんなわけで、わたくしは、みぎのような不穏 (?) な考えを、東北人にもたせぬようにするためにも、全国のみなさんにお願いする。

 もうすこし静かに待ってください。いまは、読み方・つづりかたの指導、科学的な発音の指導、
文字の拾導、文法の指導、語い論の教育などが、東北の先進的な教師たちのあいだで、ぐんぐん進
み、もしその成果があがり、またそれが普及するならば、みなさんの耳をいためたり、みなさんを
おもしろがらせたりすることはなくなります。みなさん。どうかそれまでお待ちください。ご心配
かけます。すみません……。
  
                              『国分一太郎文集』第9巻 「北に生まれて」 より

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