おひな餅まわし
おひな餅まわし
万事が質素ないなかでは、ひな祭りといっても、りっぱなだいりびななど、金持ちの旧家にしかなかった。それを見せてもらいに、赤ごをおんぶした私たちは、縁先に立った。トランジスタラジオの裏をあけると出てくるプリント配線ににたようなミニなひな壇も、昔はなかった。それで、布をかぶせたリンゴ箱の上に、「ぬたり子」という瀬戸製のものをきょうだい分だけ、かざった。赤ごが腹ばいになっている小さな置き物だった。
歌の文句のヒシモチ、クジラモチ、アラレなどもない。あるのは、「おひな餅」と「ほしいり」であった。残飯をあらって乾したものをいり、塩と黒砂糖で味をつけたものが「ほしいり」。おひな餅は、あんこいりの餅に米の粉をまぶし、そのまんなかに、赤青緑黄紫などの食べにで色づけた米の粉を、まるく置いたものだった。初節句をむかえた女の子のいる家で、その餅を五つ、七つと、安産見舞いの返しにくばるのを「おひな餅まわし」といった。私たちは、それがまわってくるのを待つのを、その日の楽しみとした。
「まわし」とはよくいったもので、女の子の生まれた家が、毎年かわるがわる、ぐるぐるまわしみたいに、それをはこんできてくれた。妹が五人もいる私の家でも、それを五回まわし、私はその五回「××子のおひな餅もってきたっす」と、家々へめぐりあるいたのだったかもしれない。いまは、こういう習慣もすたれてしまったのだろう。
(『国分一太郎文集 9 北に生まれて』新評論・1983年 )