生活綴方運動の旗手であり、児童文学者、教育評論家、教育運動家でもあった国分一太郎。その国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと。それが、このホームページの大きな役割の一つである。

「カラカイ」と「エイゴ」

「カラカイ」と「エイゴ」

 
 その季節々々によって、魚類を食うというような習慣は、どんな山国にも見られたことだった。たとえば信州では冬にブリを食い、岡山の美作地区ではサバ鮨を、どこの家でもつくる。わたくしの故郷山形の内陸部といわれる村山地方では、早春に「春告げ魚」としてカド (生のニシン) を賞味した。

 けれども、そのような季節々々のものとしてではなく、山国なのに、ある海のものを、一年中にわたってたべる。そして、これがその土地のうまいものとか、名物にさえなっていまに伝わっている。こういうこともめずらしくはない。たとえば甲府盆地のアワビを砂糖醤油でにつめた「煮貝」や、福島県会津盆地で、なにか祝いごとがあれば、かならずつくる「煮ざかな」(これはホタテ貝の乾したのに、豆腐やヤサイをいれたすまし汁)のようなものである。また昔、福島県には「にしん漬」というのがあり、それをつけるところの「にしん鉢」という焼きものは、本郷焼のなかのすぐれた「民芸」として、柳宗悦によって世に紹介されている。栄養学者たちは、このようなためしを、タンパク質に乏しい土地での古くからの知恵のおのずからなるあらわれといったりするだろう。

ところで、さっき言ったわたくしの故郷では、これの類するもの、そしてうまいもの、ごちそうとなっているものに、どんなものがあるだろうか?ふと、このように考えてみたことがあった。そして、それには「カラカイ」と「エイゴ」が該当するのであろうと、心にきめてみた。そのどちらも、わたくしたちが子どものころから、1980年代の今日までに、ひきつづいてよろこばれているものだからである。

 「カラカイ」は発音上「カラカエ」といわれる。魚のエイの肉をちょうどボウダラのように乾したものである。ものの本によると、エイには、アカエイ、ガンギエイ、トビエイなどの種類があるというが、わたくしどもがたべたのは多分アカエイであるだろう。たまに「カスベカラカイ」といわれる黒みの多いものがあったが、普通は褐色に、かたくかたく干あがっている。方言辞典では、東北地方のばあい、たいていが、エイの方言をカスべというとあり、国語辞典では、ふつうにカスべといえば、それはサカ夕ザメの異名とある。これによると、げんみつには、カラカイというのと、カスベカラカイというのとでは、別の物をさすことになるらしい。けれども、わたくしには、そのちがいは、よくわからない。

 ともあれ、そのカラカイというのを、どこから仕入れるのか知らないが、魚屋(いさばや)では、かならず用意しておく。長さ七、八十センチ、縄につるして干してあげるせいか、どれも、ふたまたになっている。古いワラ屋根の軒からさがる褐色の色のついたふといふといつららのことを、「棒鱈」になぞらえて、この土地ではボンダラというが、カラカイは、それが、もとのところでふたつに分かれた。ふといふとい干物といった形である。かたくひきしまっていて、普通の魚包丁などでは、こまかく刻むことができない。だから家々では、それを店から買ってきて、前の前の池とか、大きな桶(コガ)に、二日も三日も浸(つ)けておく。

 こうしてすこし軟化したものを、包丁か、押し切りで、適当に刻み、水をいっぱいいれた大鍋のなかで、しずかにしずかに煮はじめるのである。その刻んだのを手にとるとヒレのようなひらたい部分のところを、充実した肉のところの部分とのちがいがあり、そのうちひらいた方には、指先や手の甲にさわると、キクッと痛いトゲが密生していたりする。

 時間をかけてゆっくり煮てから、すこしやわらかくなったころこ、酒や醤油を入れて味をつける。ついでに黒砂糖のかたまりも入れて、なお煮つづける。気ぜわしくなく、ゆっくりと煮るのがコツで、これのできあがりの硬さ、軟らかきで、その家の主婦の性格がわかるとさえいつてよい。

 鍋のなかで泡立つ煮汁はベッコウ色となり、それに、しだいにとろみがあらわれる。エイという軟骨をもつ魚に特有のニカワ分がしみだしはじめるからである。いろりのそばへいくとカラカイ特有のかおりが鼻をつく。身も軟らかく、骨も軟らかく、ヒレのところのきわだったせんいの部分も苦にならず、しかも煮汁は鍋の底だけに、とろりとおさまる。このころあいが、うまくできたときである。

 これを口にすると、身の肉のところは、せんいにしたがって、そくそくとほぐれる。骨のところは歯にプツプツとこたえる。ヒレのところはヌネヌネとねばり気をおびて軟らかい。ひとそれぞれに、ひきしまった身のところと、軟骨のところと、ヒレのところを「おらはここが一等うまい」と賞味する。なかでも子どもたちは、身のところと骨のところをこのみ、いかにも食べがいがあるというように、あごをいそがしく動かして、歯のあいだにはさまりがちなせんいを苦にしまいと努力する。その軟骨を子どものときに、よく食ったせいかどうかはわからないが、七十歳をこしても、わたくしの歯は全部自分の歯なのである。このカラカイの煮つけは、一晩おくと、うつくしい煮こごりになる。朝のあたたかい飯のうえに、これをのせて食うのも、カラカイのごちそうを祖母や母がつくったときの、
おまけの楽しみであった。

 このごちそうを、祭や祝いごとがあるときはもちろん、角力を見にいくときも、山の温泉へ湯治にいくときにも、人びとは、かならず作ったのである。そして、なんでもない日でも、「カラカイでも煮て食うか」といって、手しおにかけて気長にこしらえたものである。そして、それは今日といえども変らない。しかも近ごろでは、このカラカイの干物を、適当にブツ切りにして、ビニール袋に入れたものが、ファミリーなんとかハイカラな名に変わった総合食料品店の店先に、ちゃんと並べられているのである。先日生家へ帰ったわたくしも、その二袋ばかりを買ってもらい、東京へと持ち帰った。

 つぎに「エイゴ」とよばれるものは、海藻のエゴノリを、トロトロに煮つめた汁を、浅い木の箱にいれてさまし、カンテン状にかためたものである。いつごろから、このようなものが、ごちそう、うまいものとなったのか。やはりわたくしたちが幼いときからたべさせられたものであった。これは、口にいれやすいほどのたんざく形に切り、カラシ醤油をつけてたべるのだが、葬式とか法事のときには、どこの家でも、なくてはならないものであった。といって、このエイゴは不祝儀のときだけ食うものとはかぎらない。お正月のときも、秋の刈り上げの祝いのときにも、よく食べたものだった。物見遊山にいくときの重箱にも、かならずいれられた。半透明で黄色い色、歯をたてると舌の上でしずかにくずれるやわらかさ、すこし磯の香りのする感じ、しかし、それだけでは味わいに乏しい。それにピリリとしたカラシ醤油をつけて食うところが、なんといってもうまいものなのであった。

 あのような山にかこまれた盆地に、どうしてこのような食べものが、伝統的なものとしてのこされたのか、どこの海岸でとれた海藻のエゴノリを、ここには持ってくるのか ? ここの土地で、これをうまいものとして食う習慣のあることを、長いこと知っていて、いまも、あの海藻の乾したものを送ってよこすひとたちは、どのような海べのひとたちなのだろうか ?

 わたくしは、ものごころついたときから、このことを不思議に思っていた。そして老人になってしまったいまでも、やはり、このことを考えずにはいられなかったのだ。

 わたくしの生まれ育った土地では、このエイゴのごちそうをつくる材料の海藻を売る店がいまでもある。いや、このごろでは、食うばかりにしたエイゴを、カラシ醤油のつゆといっしょに売りだす店さえできはじめているのである。あの藻のゴミをていねいにとり、心してつくるくふうが失われたのはさびしいが、あのエイゴが、あの土地に、これからも残るということでは、あまりとがめだてしなくてもよいのだろう。

                          (『国分一太郎文集 9 北に生まれて』新評論・1983年)


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