『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

豊島作文の会 1月例会の報告と2月例会のご案内(2012年)

豊島作文の会 1月例会の報告と2月例会のご案内(2012年)

第465回  1月例会(1月7日)報告      

参加:桐山、富山、伊藤、工藤、田中、榎本(豊)、榎本(典)、鈴木、上四元、那須、今井

《提案》
 『民間教育運動に育てられて』

提案者     桐山 久吉 さん(元東京作文協議会会長)


*桐山先生のお話を、簡単にではありますが、要約します。

Ⅰ. ビバ1930年生まれ  
 1930 年 (昭和6年)11月に生まれる。次の年に、満州事変。1937年(昭和12年)には日中戦争が始まる。太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)の時は、小学5年生。それまで、「甲、乙、丙」の三段階絶対評価だったのが、「優、 良上、良、良下、可」の5段階相対評価に変わった。伊勢神宮、橿原神宮などに行く修学旅行があったが、戦況により実施されたり、中止になったりした。敗戦前の1944年(昭和19年)の12月27日には、「銀座爆撃」を体験。そんな少年時代を すごす。

 戦後になり、「中央電信局」に就職。折りからの「進学ブーム」によって、大学 (東 京学芸大学) に進学。卒業後、教職につく。初めての勤務校は、板矯。その後、板橋から、清瀬に転勤。「三多摩格差」におどろく。「宿直」が残っており、給食では、スプーンではなく、箸(はし)を使っていた!

 当時、23 区から支部に異動することを「都落ち」といった。「都落ち」のため、校長などは、落胆のためか、やる気をなくし、何も言わない。モンクも言わない。それで、自由にやりたいようにやることができた。北多摩作文の会で研究を続ける。日本作文の会の常任委員になって、いろいろな人たちと出会うことになる。
 

 1930年という年に生まれ、戦前、戦中、戦後と、いろいろなことに出くわし、さまざまな体験をしてきたが、自分の意志で、未来を選択しながら生きてこれたことは、運に恵まれたなぁという感じがしている。ビバ1930年生まれ !


Ⅱ.わたしがめざした実践のもとになった言葉 
 次のふたつのことを、ずっと大事にし、目ざしてきた。

1.『せんせい』の詩

せんせい
     一ねん わかまつみよこ
せんせいが
つめをきって くいやった。    (クレマシタ)
だいて きって くいやった。
たばこん にえが したど。    (ニオイガシタヨ)
がっち                  (チョウド)
とうちゃんのごっじゃったど。    (ヨウダッタヨ)
          (鹿児島県串本市照島小・宮野原先生指導)

 (*この詩は、『作文と教育』1959年(昭和34年)6月号の「談話室」に 載っていたもの。桐山先生は、初めて赴任した小学校、板橋の志村第六小学校に通勤する途中に、道を歩きながら『作文と教育』読んでいて、この詩を見つけたと言います。)
 この宮野原先生のようになりたい、こういう人間関係の中で、子どもとすごせたらいいなあというのが、「わたしの原点」となった。

2. 矢川徳光の「だまされない、手をつなぐ、平和を守る」
 矢川徳光の『国民教育の課題』という本の中に、「だまされない、手をつなぐ、平和を守る」この三つが、国民教育の原点であるとあった。それを読み、教育の中身として目ざしていくのは、この三つだなと思い、実践を続けてきた。

Ⅲ.民間教育運動とのかかわりの中で

1. 戦後の歩み
(1) 「中央電信局 」に就職。折りからの「進学ブーム」から、東京学芸大学に入学。卒業後、教職に入る。
(2) 板橋の志村第六小学校の教諭となる。「板橋 教育と作文を語る会」に参加。
(3) 清瀬の芝山小学校に転勤する。北多摩の教研で勉強を続ける中、作文の会を作ろうということになり、遠藤豊吉、亀村五郎を講師に呼んでできたのが、「北多摩作文の会」。ここでの活動が続いていく。
(4) 『作文と教育』の「作文の時間」に執筆を続けていた関係で、日本作文の会の常 任委員となり、常任委員会、いろいろな研究会等で、国分一太郎、寒川道夫、田宮 輝夫、遠藤豊吉、亀村五郎、巽聖歌、野口茂夫、柳内達雄などと接するようになる。

2. 先達語録
(1) 作文 (散文) 教育でいえば

・国分一太郎「歌わせるよりつづらせよ」「生活綴方はかんたんにいいきれば現実把握の方法である」
・寒川 道夫「生活綴方は手段で、目的ではない」
・田宮輝夫「固有名詞でとらえ、語る」
・遠藤豊吉「切れ目のない生活から場面を切り取って描く」
・亀村五郎「なぜかというと」

(2) 詩に関していえば
・巽聖歌「インスタント詩を排せ」
・柳内達雄「ピカリ言葉」
*上の(1)~(2) の言葉に関連して、いろいろな有益な話、おもしろいエピソードなど、 語ってくださいました。
 田宮輝夫の「固有名詞でとらえ、語る」では、現在、プライバシーとの関連から、作文の中に、子どもの名前を書かせなくなってきていることに関して、これでは、作文教育は成り立っていかないのではないかという指摘がありました。

 また、野グソの作文の話も披露されていましたが、おもしろい話でした。
 桐山先生が一年生を担任していた時、担任していたクラスの女の子が、学校の帰りに、間に合わなくなって、道で野グソをしてしまった、そのことを作文に書いてきたのだそうです。それを文集に載せたところ、何でこんなのを載せたのかということで、 その子の親から、クレームがついたとのこと。それで、家まで、出かけていき、説得。

桐山:わたしのうちの娘も一年生ですが、「便所」がこわくて入れず、けっきよくもらして帰ってきました。それとくらべたら、相等いい!こんな健全なことはないのです。

 親:はあ、そんなもんですか。

*他にも、おもしろいお話がいくつもあったのですが、このへんでやめておきます。5月に、亀村五郎さんの「偲ぶ会」が計画されていて、それに向けて、一文を書き冊子を作るのだそうです。その原稿も、資料として入っていましたので、それをマスプリして入れておきます。              ( 文責 : 工藤 )

 なぜかというと
                                              桐山久吉
 亀村先生は『なぜかというと』という指導語をたいそうたいじにしていました。
 「ぼくは、かめむら先生がおもったよりやさしくておもしろい先生だな、とおもいました。なぜかというと、入学式の日に、かめむら先生が、じようだんはきらいだねといってじょうだんをいっていたからです。どうしてやさしいとおもったかというと、げんこつはやらないとか、がっこうへきてあそべって、ふつうの先生とちょっとちがっていて、とってもいい先生だなとおもいました。」という1年生の日記や、「げんこつはできるだけやらないようにします。でもじゅぎょうはすごくきびしいですよ。なぜかというと、勉強のわからないのが、いちばん楽しくなくなるもとだからです。」と赤ぺンで返しているやり取りを読むと、その指導への意気込みを感じます。
 子どもがやさしくておもしろい先生だと日記に書いてきてくれたら、どうしてそう思ったか、開きたくなるのは担任の人情です。一般的なやさしさやおもしろさの概念ではなくて、その子がとらえたやさしさやおもしろさの中味を知りたくなるからです。そして、付け加えられた文章で、作者は入学式の日のできごとを鮮明に覚えていて、そのことからやさしくておもしろい先生だと感じたこと、冗談は嫌いと言って冗談を言うジョークがわかる1年生だということもわかります。このようにして子どもたちを個としてとらえ、付き合いを深めていたようです。そのキーワードとして『なぜかというと』と子どもたちに呼びかけていたように思います。
 亀村先生の実践をお聞きしているとよく失敗談が話されます。教師の思い込み(正義感)から子どもの言動をとがめだてたり、思いやりのある行動を見過ごしたりしていて悔やむ話です。その失敗がわかるのは、なぜそう思ったのかと子どもに開きただしたり、その積み重ねで、子どもたちが常日頃そうした目で物事をとらえて、日記などを書いていたりしたものをきちんととらえていたからです。亀村先生はそうした作品に触れて、その都度、作者に深くわび、子どもたちとの付き合いを深くしていました。そうした実践の鍵である『なぜかというと』という指導語を私たちにも勧めたのでした。
 聞きただす意味については、もっと深く考えていたのかもしれません。成蹊小学校国語部の機関紙『国語部報』3号 (1967年) に『こみやまけんいちの日記』という文章を先生は書いています。
 こみやま君が1年生の3月に「きょう、がっこうのかえり、かえるがしんでいるのをみました。そして、ぼくは、かえるのほうをみて、ごとうくんとぼくが、いぽがえるをころしたことをおもいだしました。それで、ぼくがこのかえるもかわいそうだろうなとおもいながらかえりました。」と書いたのにたいして、かえるの死に対しでかわいそうだと表現して終わりにしてしまったのではないか、とこだわって、「かえるはどこで、どう死んでいたのか。きみはもっと考えたことがあったのではないか。」と赤ベシでこの日記をもう一度書くように勧めている話です。
 そこで先生は「わたしは、子どもたちに対して、今、しみじみと、物に感じる心を育てたいと願っている。テレビや、俗悪な雑誌の影響とはいいながら、子どもたちの感じ方は、それが喜びとしても、怒りにしてもまことにうわっつらに走ってしまっているからである。
しあわせだなあといって、鼻の横をなでて終わり、悲しみや怒りもシェーとかテへへな という表現ですりかえられてしまうこの頃である。」「北海道の冷害といえば、その土地の人たちの苦闘をすこしでも知って、しみじみと同胞に対する感情を持つことなく、直ちに小遣いを集めて送ろうということになり、それを果たせば、何か心のすっきりしたものを感ずるということである。」「結果だけを先行させることを身につけさせることが、将来問題を解決できる人になり得ないということである。」と書いています。
 今年は3月11日に東日本大震災が起きて、岩手、宮城、福島を中心に地震や津波の大きな被害を受け、その復興に何年かかるかわからない。4か月もたっているのに瓦磯の撤去さえ目途が立っていないという状況になっています。特に福島第一原子力発電所の苛酷事故は周辺の住民に過酷な生活を強いているだけでなく、いまだに事故を収束できないで、海をけがし、大地をけがし、空をけがし続けて、日本中に、いや世界中に被害を及ぼしています。ところがマスコミは無責任な東京電力や無能な政府の言い分を繰り返すだけで、なぜ事故が起きたのか、事故の被害はどこまで及んでいるのかといった本当のところは報道をしません。その上、懸命に生きている被災者やボランテアの様子 (それ自体は頭が下がることですが)を報道ながら日本人はたいしたものだ、がんばれ日本、とかけごえをかけて、その方向に世論を向けようとしています。学校で募金に応じていない生徒の名前を壁に張り出したという報道も聞きました。
 自分の五感や頭や心を使って事実をとらえ、『なぜかというと』と突き詰めて考え、表現することは子どもだけでなく、私たち大人にも必要なことではないでしょうか。亀村先生が子どもの作品を紹介する時、「かえるがじてんしゃにひかれたのかなとぼくはおもいました。なぜかというと、」ここで一息入れて、一語一語かみしめるように、「手や足がバラバラになって、手のかわがむけて、にくみたいのがでていました。どうぶつだって、にんげんだって、いきものはぜんぶおんなじだから、ころすのはかわいそうだなとおもったのです。」と読まれていたことを、しみじみと思い出しています。


豊島作文の会 2月例会(第466回)のご案内

  
時  2012年 2月11日(土) 午後2時~5時

所  豊島区立池袋小学校 6年1組 教室

《提案》
『詩を書こう』(3年生)

提案者  鈴木 由紀 さん(板橋区立中根橋小学校 3年担任)


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