『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

綴方理論研究会 1月例会のご案内

綴方理論研究会1月例会案内(報告)

日時 2010年1月31日(日) 午後2時~5時

場所 東京都世田谷区代田6-19-2 乙部武志邸にて

《内容》

◇講義「とつおいつ31」 乙部武志

◇提案『非常勤再雇用をしながら、「作文教育」に携わってきて』
             提案者 榎本 豊(墨田区立堤小) 

◇司会 左川 紀子  記録 早川 恒敬 


とつおいつ31

語り部、乙部武志先生
語り部、乙部武志先生。写真は、10月例会の時のもの。


◆朝日新開 ( 夕刊 ) の連載記事
 前回の工藤さんの報告はできるだけ多くの人に読んでもらいたいものだ
った。日本の国語・国字政策の疑問を持ち関心をもっていることの話もし
た。再度、工藤さんの労作を多くの人が知っておく必要があるだろう。朝
日新開の夕刊の連載記事を、もう一度打ち直して、写真はコピーでていね
いに写してくれた。時節柄、もっと多くの人に読んでもらいたい特集であ
った。
 前回の「とつおいつ」について、人名についての字の間違いがあったので、
あとで榎本さんに訂正をお願いしたい。提案が口頭であったので、記録者に
責任はない。
日本語の国語国字教育については、疑問を持っているものが結構多いとい
うことが分かる。多くの人が関心を持っているということだけでも、はっきりし
た。改めて、もう一度読んで、機会があったら、考えたい問題にしていただき
たい。賛成しかねるところもある。例えば、紫舟の書いた坂本龍馬の題字を
見て、これでよいのかという疑問があるが。

 中国に指で絵を描く人がいる。これらも見ておく必要がある。また、筆
二本でもってそれを操るということも分かった。そういうことにも、気を
つけてみていく必要を感じた。


◆時代を先取りしたサリンジャーの死
 1月30日新聞にサリンジヤーが亡くなったことが載っていた。
亡くなったのは、九十一才なのに、顔写真は、イケメンの若い頃の写真である。

翌日の読売の夕刊には、八十何才かの写真が出ていた。

私は、この本を読んでいなかった。読んでないけど私の書架には、ちゃんと
このようにあった。おそらく斜め読みしたに違いない。新聞に紹介された野崎
孝が翻訳した「ライ安畑でつかまえて」は、当時センセーショナルなものだった。
「青春小説のカリスマ悼む」といわれた。2O世紀に「21世紀の時代性予言」と
して書いているが、それは必読の書なのかもしれない。村上春樹までが、その
後この本を翻訳している。だから、我々の必読の書かも知れない。

 そういう意味では、時代を展望する予想するという点で、オバマ大統領の
演説にも耳を傾けなくてはいけない。戦争にも、正しい戦争もあるという演説。

 ノーベル平和賞をもらったことのあとの演説だから、考えさせる。その後、
鳩山首相などの演説、支持率低下の状況であるが、二人の演説も考えな
ければならないところがある。

 いずれにしても、自分が読んでいなかったのに、こんなに2日間もマスコミが
取り上げたことが、しゃくに障ってね。でも怠け者だからしょうがない。(笑い)


◆ 農業者大学校での国分一太郎
 では、今日の本題に人ります。昨年に人会の申し込みがあった「下田英雄」
という人がいる。この人は、国分一太郎が唯一「御上の碌」(御上からお
金をもらった) を受けた時の間に立った人である。昨年、下田英雄から農
業者大学校 (文科省管轄以外の大学)の学生たちに講義をしたことがある。

 大学というのは、全部文部科学省の管轄で、大学校は、そうじゃないとこ
ろにはいる学校である。朝鮮大学校もそうで、専門学校的な学校を言う。
農林・漁業省管轄の学校である。

 その学校は、京王線の聖蹟桜ケ丘にある学校である。日本の農業や環境
問題について、『緑の風のふく中で』(解放教育)にいっぱい書かれていた。

 やがて下田が、東根にひっこしをする。
あそこに、たばこの専売局があった。
そのとき正三郎さんが言うには、下田英雄さんとは、家族ぐるみの付き合い
をしていた。
現在のお住まいが、長野県の茅野市であるということなので、昨年は研究会
に参加できなかった。

 この農業者大学校に勤めていたとき、農業にたずさわる若者たちに日本
の古典を学んでもらいたいと言っていたという。亡くなった関口敏夫さん
が、心を動かされ国分さんが言ったことを書き留めていた。その辺に資料
があるはずだ。

 この頃、めっきり衰え、どこにものを置いたかを覚えていない。
だいたい自分の名前さえ覚えなくなってしまった (笑い。)
そういう状態になってしまった。

 少なくとも松尾芭蕉の俳句くらい、何句かは、覚えさせたいと言っていた。


◆国分一太郎の短詩 (歌と俳句)
 山形はソパどころ。

松尾芭蕉は「そばはまだ花でもてなす峠かな」という句がある。

これを詠ったのは東根ではなく尾花沢あたりを通って山寺に泊まったはずだ。

ぼくが中学の頃、担任が、お寺に下宿していた。

その先生が、「そばの花しぼまんとして冷え冷えと」そんなような歌を詠んで
くれた。

寒くなったころにそばの花が咲く。

実は結んではいないが見事に咲いている。

我が家も、その頃は、そばを作っていたからね。

そのくらいの叙情性がある。

その土地のことを知っていて欲しい。

国分一太郎だから、リアリズムということを重んじていたのではないだろうか。

これは、あま りにも有名だから記憶している人もいるのではないかと思う。

「のみしらみ馬のしと (尿) するまくらもと」という句がある。

東北は遠野が有名だが、馬を大変大事にしていた。

馬といっしょに寝起きしていた生活だった。
人間は、北側に住んでいたが、馬は南側に住まわせた。馬は、大変な労働
力であったから、それほど大事にした。馬と一緒に人間が暮らしていたと
言うことが、芭蕉の歌で分かる。

国分一太郎はこのように東北の様子というものをよく知らせた人だった。

子どもたちが書く題材がどこにあるかを考えるときも、どのように題材
が存在しているか「よく見れば薺( なずな ) 花咲く垣根かな」というのが
ある。
 
奥の細道で作ったのかなと疑問に思い、暉峻康隆の本によると、
深川芭蕉庵で作ったもののようである。

「題材はどこにでも転がっているものだ。よく見れば」といった内容だ。

ナズナ等というぺんぺん草は、どこにでも咲いているもの。

野ざらし紀行から帰ってきた芭蕉は、1686年芭蕉庵でその句を作っている。

ナズナという字は、くさかんむりに齊藤の齊を下に書く薺)。
一字で書いている。


◆ちょっと横道にそれて
 「古池やかわず飛びこむ水の音」というのはどうか。
幽玄の世界を詠っ たものだろうか、いやそうではない。

 「古池や」というのは、呉服屋の名前だった。

呉服屋の前を通りかかったところ急に大雨が降ってきた。

服を買うつもりなどなかったけれども、ものすごい雨水の音ともに思わず
「買わずに」呉服屋に飛びこんだ。
それが本当らしい。

うそだよ!落語家が言ったんだよ (笑い。)

これは落語の話ではあるが、いま三つの句のことを言った。

「トンボつりきょうはどこまで行ったやら」これは、お寺に入ってまもなくの
小僧のことを言っている。

「トン」「ボツリ」と、お経を読んでいる。

「お経は、どこまで言ったやら」と言う落語の話なんですよ (笑い。)

こういう神聖な研究会の場で、もうやめておきますけどね。


◆国分一太郎に影響を与えた歌の師匠
 国分一太郎は農業の担い手たちとなる農民大学校の若者たちに古典という
ものを学ぶことの大切さを伝えたかったのだ。

では、国分一太郎自身は、どうであったのか。

実は、俳句というものは、ほとんど残していない。

俳句 に似ているいわゆる色紙に書くようなものは、結構残している。

短歌と違うそういうものをね。

なんと言っても、素養があったのは、短歌だったということ。

また、短歌が盛んであった。

土田茂範が国分一太郎は、師範時代に文芸クラブで同人誌を
出して短歌を作っていた、と書いている。

斉藤茂吉の愛弟子である結城哀草果 (ゆうきあいそうか) の影響を、
国分一太郎は受けていただろうと思われる。

国分一太郎より、20 才くらい上である。

この人は、昭和49年に亡くなっている。

東北地方で、長らく暮らしていた。

本当に朴訥な農民の顔をしていた。

短歌や随筆などを書いていた。

「樹陰山房」(じゅいんさんぼう) と、自分の住まいを呼んでいた。

国分一太郎は、新宿のあの家をなんと言っていたか。

「朴葉小舎」(ぼくようしようしゃ )(ほうばごや) と名付けていた。

何という呼び名か、生前聞いておかなかった。

今紹介した本は、東北電力が金が余っていた頃、東北6県と新潟
県の戦争中の文詩集を復刻して出した。

榎本さんのおかげで、成田忠久さんの長女久子さんという方を
介して、手に入れたのものである。

当時、東北6県と新潟県の全小学校に配布した本である。

「白い国の歌」という本になった。

ここには、国分一太郎は出てこなかった。


◆魂の技師・国分一太郎
 その後出した「すばらしい山形」という本の中に、「山形の偉人」という形で
出てくる。

斎藤茂吉・浜田広介 (泣いた赤鬼)・国分一太郎・結城哀草果・
阿部次郎 (三太郎日記)などが取り上げられている。

そこの所に、「生活綴方運 動の旗手・魂の技師」(土田茂範)、「国分一太郎
の児童文学」(鈴木実) 、「国分先生と長瀞の風土」(吉田達雄)、「私の中の父」
(国分真一)、「賢兄愚弟」(国分正三郎) 、「生涯の師国分先生のこと・私の教師
スタートの」(山田とき)、「国分一太郎君のことども 」(師範学校同級生の石垣
貞次郎)、「先生の思い出」(もんペの弟の阿部平蔵)、 「国分さんとわたし」
( 烏兎沼宏之 ) が載っている。

★『はじける芽』35号に掲載されている、早川さんのまとめを転載しました。 


榎本氏、すごい提案でした!          

乙部武志先生の「とつおいつ31」の講義のあと、榎本 豊さんから提案を受けました。

12月例会の後の忘年会で
榎本氏。12月例会の後の乙部邸での忘年会で。


案内では、
『非常勤再雇用をしながら、「作文教育」に携わってきて』という表題でお知らせ
しましたが、『高学年の日記指導と作文の授業 ー嘱託教師の十ヶ月ー 』と、
ちょっと題名変更してのお話でした。

榎本さんは、2006年3月に定年退職を迎えたのですが、まだまだ元気、作文
教育を続けたい、退職した墨田の地に恩返しをしたいということで、これまで3年間、
再任用教諭として、がんばり続けてきました。

昨年度までは、算数の少人数担当をやりながら、日記指導、作文教育をかってでる
というスタイルでやってきましたが、今年度は、理科専科をやりながら、4、5、6年の
作文指導をお手伝いするという形で、実践が続いています。

4、5、6年生の指導作品をいくつも持ってきて紹介してくれましたが、どれも子ども
たちの本音のあらわれた、すごい作品ばかり。

いろいろな問題を抱えながらも、子どもたちが、けなげに自分の現実に向き合って
書き綴っているのです。

榎本さんは、子どもたちに、身ののまわりで起きている様々なできごとにしっかり
目を向けていくようアドバイスを出しながら、書くことを促していきます。

そして、書きあがった作品をみんなで読み合い、話し合いをしていく中で、書いた子
の思い、抱えている問題などを共感をもって理解しあっていくことを大切にします。

いくつか、作品の題名のみ紹介します。
『お母さんのおはかまいり』
『なぜいつもおくれるのか』
『〇〇さんとけんか』
『わるいことをした』
『祖母と祖父に会いたい』
『二年間も続けていた』
『もういないけど、私が大好きな先生』
『堤小学校に転入してきて良かった』
『フィリピン→日本へ』
『父は』

「5分間メモ」教育実践法研究会の早川 恒敬氏が、
『いま「学級経営・学級づくり」<4つの構成・3つの道筋>について』
という論文の中で、次のように書いていました。   

今日、学級はおおむね次のような4つの構成となっている。
その1 受験塾・スポーツ少年団群の子どもたち(A)
その2 アスペルガー症候群の子どもたち(B)
その3 経済的貧困、家庭崩壊に見舞われている子どもたち(C)
その4 通常の成長群の子どもたち(D)          
この4つの構成を心得て学級経営・学級づくりをするかそれとも無意識にやるかでは大きく異なる。
それぞれの特徴の違いを知っておく必要がある。

「経済的貧困、家庭崩壊に見舞われている子どもたち」にかかわる事件、報道が
今、増え続けており、日本の抱えている大きな問題の一つとなっています。

今、子どもたちのまわりで何が起きているのか。

私たち大人は、そのことにしっかりと目を向けていく必要があります。

榎本さんの今回の提案は、そのことを再認識させてくれる実践報告だったと感じます。


田中定幸氏の本が出版に!!

理論研の重要メンバーであり、国分一太郎「教育」と「文学」研究会の会長でもある田中定幸さんが、本を出版しました。
(発行は、2010年2月20日付けで、子どもの未来社から。)


田中定幸さん
1月例会終了後の田中定幸さん。


本の題名は、『作文指導のコツ① 低学年』。

作文指導のコツ① 低学年 

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