『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

国分一太郎年譜 4 (30歳~39歳)

国分一太郎年譜 4 (30歳~39歳)

1941 (昭和16)年 30歳
 戦争に協力していることを恥じて1月帰国、生活綴方教育関係者への大量弾圧を知る。3月10日、治安維持法に予防拘禁制がくわわり、自分も検挙される危険があることを察知する。気のすすまぬままに『少年倶楽部』に時局におもねる少年小説『戦場の幻燈』を発表する決意をする。しかし10月12日未明、目黒区緑ケ丘のアパート二階で検挙され、身柄を山形警察署にうつされる。

 11月から翌年にかけて、山形県警察部特高課司法警察官砂田周蔵警部補の、治安維持法違反をみとめさせる強引なとり調べをうけ、調書を作成される。

 『戦地の子供』は厭戦思想をあおるものとして文部省推薦をとりけされる。

 12月8日、太平洋戦争はじまる。

 この年、戦場でかいていたものをあわせて、百田宗治の世話で小説集『外国権益』を厚生閣から出版し、転向を自認していた島木健作から「まずはよい」とほめられる。

1942 (昭和17)年 31歳
 1月、与田準一から依頼されていた『センチノガン』を独房でかきあげる。

 4月、山形刑務所へうつされ、未決監房ですごす。検事調書作成は二日でおわり、起訴される。10月から予審がはじまり4ヵ月ほどつづく。

 以後二年間ほど父が週に一度は面会や差し入れにかよってくれる。獄中でマライ語、タイ語、ドイツ語などを独習する。

1943 (昭和18)年 32歳
 7月、昭和9年から12年までの生活綴方運動が治安維持法違反とされ、懲役2年、執行猶予3年の判決をうける。転向の誓約を強制させられて出所。妹マサの夫、彫金師早坂次郎がむかえに出むく。釈放されたその足で本屋にはいり『トンネルを掘る話』 (岩波書店〉を買いもとめて記念とする。母親の頭に白いものがふえたのを見てかなしむ。以後、特高警察の保護観察下におかれる。

 数日後、上京。同郷の渋谷米三のつてで印刷機製造会社、中島機械株式会社に入社。妹ハルとともに川崎市内新丸子のアパートにすんで通勤し、庶務、厚生、労務などの仕事をする。

1944(昭和19)年 34歳
 疎開先で50人ほどの工員とともにくらす。年端のいかない30人ほどの少年工たちが腹をすかせていたので、つてをもとめて小麦粉や大豆を買いあさるがおいつかず、山の畑をかりで、少年工たちとともにたがやし、サツマイモやソパをうえる。その作物が実をむすぶま九に8月15日の敗戦をむかえる。工場を解体整理。

 12月、現地採用の工員森本久枝 (当時25歳)と結婚することになり、23日、旅館「蔦の湯」の二階のソバ屋で、ささやかな祝宴をひらく。就職の労をとった比留間安治氏と深江社長が東京か
ら、また弟正三郎が山形から、それに久枝の母と遠縁の親戚の計5人が出席した。

1946 (昭和21)年 35歳
 1月、東京にもどり、戦時中、妹ハルとすんでいた三田綱町一番地の家にすむ。会社は同系列の日本タイプライター株式会社に統合されて三田製作所となり、その所長となった深江氏から労務科長に任命される。組合づくりと、本社とくらべて平均3割もひくい賃金を改定する仕事にとりくむ。
   
 一段落のあと、さまざまな集会に精力的に参加して、「民主主義科学者協会」(「民科、1月12日結成)、「児童文学者協会」 (3月17日結成、9月『日本児童文学』創刊)、「民主主義教育研究
会」(4月19日結成、7月『明かるい学校』創刊 ) に入会。

 しかし、歌がうまくないという理由で教職への復帰はあきらめ、おりから活発になりつつあった教員組合の全国組織結成の動きに参加したり、呼びかけ人に名をつらねるといったことはすまいと決意する。

 三月、妻久枝とともに郷里にかえり、天童に村山俊太郎をほぼ10年ぶりにたずね、かたりあう。また、おしえ子鈴木千里らがひらいてくれた「もんぺの弟」の同級会に出席、好物の煎り豆をほお
ばりながら、深夜まで綴方についてかたりあう。4月29日の“天長節”の日に、日本共産党入党許可の知らせがとどく。

 この月、波多野完治に請われ、宮原誠一、滑川道夫、菅忠道らとともに復刊『生活学校』 (厳正堂) の編集委員となる。また、山本有三企画の少年少女雑誌『銀河』の編集者にと請われ、自信がないとことわったが、創刊号 (10月) に短編「砂糖」をよせる。これは CIE の掲載禁止処分にあい、かわりに翌年5月号に「雨ごいの村」を掲載する。

 7月、長女ミチコ、長野県松本の妻の実家で生まれる。東京からかけつけ「ミチコに残す日記」と題して「ミチコに与える詩」のほか似顔絵や俳句十数句、生まれた家の見取図、部屋のスケッチなどをかく。

 10月ころから年末にかけて、第二次農地改革、口語による日本国憲法公布、当用漢字表の告示などに大きな関心と期待をもつ。いっぽうで菅忠道たちとともに「児童文化民主協議会」「教育民主
化協議会 (KMK) 」の組織づくりにはげむ。12月17日の、生活権確保、吉田反動内閣打倒国民大会では、 KMK 代表として演説する。

1947(昭和22)年 36歳
 日本タイプライター社を辞して『子供の広場』『コドモノハタ』『子どもの村』を発行していた新世界社に入社。「教育問題研究所」の一員として『教員生活』を発行し、後藤彦十郎らとともに
その編集にあたる (3月号から9月号まで)。

 1月末、2・1ゼネストにそなえ、闘争本部に激励文をもっていくなどするが、マッカーサーによる中止命令が出て挫折感をあじわう。

 このころから、「民主主義教育研究会」を組織がえした「日本民主主義教育協会 (民教協) 」の幹事となり、新設の社会科のありかたについて研究をふかめる。

 10 月「児童文学者協会」にもうけられた批評委員会に菅忠道、周郷博、関英雄などとともにくわわる。『子どもの村』の作文の部の選者になる。

1948(昭和23年) 37歳
 2月から3月にかけて、新世界社労組が、森脇将光社長の用紙横流しに抗議し「子どもの広場を守れ」のスローガンをかかげておこした争議の先頭にたつ。森脇社長、折れて闘争終結。社長は経
営に口を出さないとの約束をとりつける。

 7月、教科書の発行に関する臨時措置法公布(教科書の検定制度発足)、それにさきだつ3月、松江隆信とともに、日教組教科書研究協議会編の4年生用社会科教科書を編集し出願、合格する。しかし、ほかの学年のものはすべて不合栴となる。

 10月、第一回教育委員公選にあたり『民教協ニュース』特別号に原稿を書き、また東京、埼玉で進歩的候補を支援する。12月、なが年、師とも友とも思っていた村山俊太郎の訃報に按し、悲
しむ。

 この年、朝鮮人教師養成のための講座に出講。またこの年あたりから、東西対立激化の世界情勢下で GHQ 東京軍政部による民教協などに対する圧迫つよまる。

1949(昭和24)年 38歳
 1月、長男生まれる。自著の少年小説『おとりの辞書』の主人公の名をとり、真実はひとつの想いをこめて真一と名づける。

 4月、団体等規正令公布、即日施行。団体構成員の届出を義務づけたため、民教協の活動はいよ窮地にたつ。レッドパージの伏線であった。

 4月『子供の村』に劇「ながいはなし」を発表してから、同誌への執筆がおおくなる。

 日木共産党文化部員となり、学校教育と児童文化対係の仕事を担当する。

 このころ、巽聖歌から雑誌『新児童文化』ヘ基礎学力低下問題について、原稿をたのまれる。平凡社の『児童百科事典』の編集委員をひきうけ、編集会議で林達夫、瀬田貞二、日向六郎らのひろくふ
がい学識に接しておどろく。いっぽう、党幹部西沢隆二(ぬやまひろし)が、生活綴方が生まれるまえの芸術至上主義『赤い鳥』の鈴木三重吉祭をやるべきだと主張したのに反発と違和感をいだく。

 12月、日教組の月刊紙『教育情報』に『生活綴方の復興と前進のために』の連載をはじめる。来栖良夫らが準備をすすめていた同人組織「日本綴方の会」などあたらしい生活綴方運動のきざしへの援護とはげましの思いをこめてのことであった。これがのちの『新しい綴方教室』の原型となる。

1950(昭和25)年 39歳
 1月6日、コミンフォルム機関紙、日本共産党指導者野坂参三の平和平命論を批判。党は12日、批判をみとめる「所感」を発表、5月1日「米るべき平命における日木共産党の基本的任務につい
て」 (50年テーゼ草案)を発表し、武装闘争の路線をうち出す。朝鮮戦争前夜にあたる6月6日、マッカーサー は吉田首相あて書簡で、日本共産党中央委員24人の公職追放を指令、これを機に徳
田球一書記長らは非公然体制にうつり、中央委員会は事実上分裂する。

 こうした党の状態に苦しみながらも、地下にもぐった主流派への不信をしだいにふかめ、7月ごろ党木部文化部員を免ぜられるが、自分の性格も思い、これでよかったと納得する。

 同月1日、「日本綴方の会」結成に参加。同人は300人、機関誌は『作文研究」(双竜社)。

 レッドパージ旋風のなかで「日本民主主義教育協会」は自然解消のかたちとなり、『明かるい学校』も廃刊となる。その後「新日本教育協会」をつくり、社会書房から『新日本教育』を発行するが版元がつぶれて創刊号でおわった。

 7月、新宿区柏木4の656(現、北新宿3丁目21の10) にうつる。

 このころから、地方講演や研究会に参加することさかんになる。そのたびにさまざまな草や木などをもらいうけ、庭つきの家にすんだのをさいわいにうえはじめる。また、父親に似て動物ずきだったので、犬や猫を飼い、のちには自宅のまえにすてられたものまで飼うようになる。

 年末、新世界社の経営がゆきづまり、退職。以後もっぱら文筆の仕事にむかう。このころから『教育新報』に連載した「生活綴方の復興と前進のために」に手をくわえて『新しい綴方教室』のための原稿をかきためる。いっぽうで雑誌『学力向上』の編集にも力をそそぐ (やがてこれは日本学力向上研究会編『教師の友』となる)。

 この年、山形県山元中学校教員無着成恭編の『山びこ学校』出版のために努力する。また、この年から、作文教育復興を決議した山口県教組主催の小中学校生徒の作文コンクール審査委員になる。えらばれた作品は、文詩集『山口県の子ども』となって発行される。


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