『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

『第一回作文教育協議会(中津川大会)へ到る道』(8)

『第一回作文教育協議会(中津川大会)へ到る道』 (8)

7 『作文と教育』No.7 3月号(1952年3月20日発行)を読む
(1)「作文と教育」No.7(1952年3月号)が、1ヵ月後の3月20日に発行。 (資料20)

(2)国分一太郎が『書評「作文教室」をよんで』という題名で、書評(資料21-右-)を書いている。
「作文教室」は、
「1952年度に送る作文教育の決定版 学校・家庭 小学校学年別、作文の指導書」
という見出しで、
-母と教師のために-
という副題がつけられて、「文化研究社」というところから発行されている。定価200円。一年(寒川担当)、三年(今井担当)のみ新刊として発行されている(他学年は「近刊」)。

大変、明快な文章。こういうぴしっとした読み方のできる国分一太郎は、やはりすごいと思う。

寒川道夫、今井譽次郎の仕事ぶりに関し、次のように高く評価をしている。
①「どちらも、生活の事実に出発する教育、そして時代の困難をのりきる子どもをつくることをめざしている」すぐれた仕事ぶりである。
②「先生がたが、これを土台にして、いっそう内容ゆたかな実践をしてくれるならば、この本は大きな役割を果すだろう。」
③その後、「母親たちにもわかってもらうという点からいえば、この二つの本は、どちらも、まだダメだと思う。これは、この二冊の本だけのことではなくて、日本では、まだ、ほんとうに母親たちにまでわかってもらえるほどの『教育理論』や『教育方法』を概括的にかける人は出ていないのだ。日本の教育理論の弱さだといってもよい。」と続く。さらに、次のように続けている。
「 その点で、両君が、一年生なら一年生、三年生なら三年生の具体的作品を用いた『子どもへの理解』のページを、もっとどっさり母親たちのためにつくってくれたらよかったと思う。そういうところに、児童心理学者などに負けないカンロクを示してほしかったと思う。」
*私は、ここの「一年生なら一年生、三年生なら三年生の具体的作品を用いた『子どもへの理解』のページを、もっとどっさり母親たちのためにつくってくれたらよかった」というところが気になっている。たとえば、どういうものを指すのか、ここをもっとつめていきたいと考えている。

*「作文と教育」No.18(1953年7月号)に、「生活綴方のはなし」(国分一太郎)というのがある。
NHK第二放送で、国分一太郎が主婦(保護者)向けに話したことの記録なのだが、この中にどうもヒントとなりそうなものが入っていそう。今後の課題だ。

(3)「あとがき」に、「本誌の編集委員の顔ぶれが変わりました」とある。 (資料21-左)
①・小山玄夫(東京学芸大付属小)
・来栖良夫(児童文学者協会・教育出版株式会社編集局)
の名前がなくなって、吉田友治、綿田三郎がかわりに入り、13名に。
②後で分かるのだが、来栖良夫は、どうも病気になってしまったみたいだ。
③「あとがき」の署名(G)は、当然、後藤彦十郎だろう。


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