生活綴方運動の旗手であり、児童文学者、教育評論家、教育運動家でもあった国分一太郎。その国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと。それが、このホームページの大きな役割の一つである。

『贈り物としての東北』

『贈り物としての東北』

 ときたま生家へ帰るとき、列車の窓から外を見ていて、ズーズー先生は、ホンタエなつかしくなるときがある。

 おりる駅に近づく右側の火の見やぐらを背景にして立っているカキの木の枝ぶりが、子どものころと同じなのだ。その左側のケヤキの木の空にそびえる姿が、もとのままだ。あの山の上に生えている二本の木は、男のおとなと子どものかっこうに、昔からながめられた。おとなの方がすこし身をかがめて、子どもに何かをたずね、なだめているみたいに見えた。 [120]*1


はじめに

 国分一太郎『ずうずうぺんぺん―東北のことばとこころ―』(1977年)*2は、われわれに東北 *3をそっと差し出す。国分の差し出す東北とは、国分が劣等感を抱いていた、遅れた地域として諮られる「東北」ではない。また、人と自然との、人と人とを切り離そうとする「東北」でもない。国分の差し出す東北とは、そのような「東北」を包み込む、人と自然との、人と人との結ひつきを取り戻すような場所である。『ずうずうぺんぺん』は、そのような東北を読 むものの前にそっと差し出す。確かに、国分が自らのズーズー弁、そして「東北」に劣等感を抱き、不当な偏見に苦しめられていたことは言うまでもない。苦しむ国分の姿を『ずうずうぺんぺん』の至るとこ ろに見ることができる。苦しむ国分にとっては、「東北」は遅れた地域であり、劣等感を感じさせる地域でしかない。だが、その一方で「東北」に苦しむ自分をなだめるような国分の眼差しを『ずうずうぺんぺん』に見ることが出来る。それは丁度、不安がる子どもをなだめている親のような眼差しである。なだめるような国分の限差しに、東北は劣等感ではなく、愛情を感じさせる場所として映る。本稿の考察はこの点に向けられている。

 1 「北」としての「東北」

なにか東北のことを」と『朝日ジャーナル』からいわれたとき、わたくしは「ずうずうぺんぺん』という題名をつけたが、さして深い意味をこめているとの意識はなかった。むしろ自分のズーズー弁についての劣等感からのがれたいとのおもいの方がつよかったかもしれない。けれども書いているうちに、このような方言をつかってくら している東北人の心のはしくれみたいなものを、自分の幼い時代からの経験、山形県の村山盆地での限られた見聞をもとにして、なんとか探ってみようと思うあんばいとなった。 [254]

 時期に関しては必ずしも明確ではないが、国分が語っているのは自らの態度の変化である。国分は、「自分のズーズー弁についての劣等感からのがれたいとのおもい」から、「このような方言をつかってくらしている東北人の心のはしくれみたいなものを、自分の幼い時代からの経験、山形県の村山盆地での 限られた見聞をもとにして、なんとか探ってみようと思う」ようになったと言っている。ここで国分の関心は方言から方言を話す人々の生活へ、そして劣等感から東北人の心のはしくれみたいなものを探ってみようという気持へと変化している。だが、なぜ 国分の態度は変化したのか。さらには、国分にとってこの変化は何を意味するのか。これらのことを明らかにするためにまず国分の言う「ズーズー弁についての劣等感」と向き合う必要がある。

 劣等感の背景には「東北」に対して向けられる蔑視があることは言うまでもない。だが、この蔑視はどこから生じるのか。『ずうずうぺんぺん』と同時期に書かれた「『方言』新発掘」 (1978年) において国分は次のように言う。

方言、なかでも東北方言などを、人びとが軽べつするとき、それは発音・イントネーション・アクセントなどを悪口するのであった。 *4

発音やアクセントに対する悪口は『ずうずうぺんぺん』にいくつも見ることが出来る。例えば、「東北ズンミン共和国」で国分は次のように書 いている。

戦後、ズーズー先生は、全国各地を、講演だ、座談会だといって、まわり歩くようになった。話は気をつけて教科書ことば風に、方言の単語を使わずにするのだが、人びとはすぐ、そのナマリや調子に気をとられてしまう。講演のときなど、ひとことふたこと、しゃべりはじめたと思うと、列の前のほうで、『あら、やっぱり』『ズーズー弁ね』とでもささやいているように、ふたりの美しい女教師が、ひじをつつきあってニヤニヤしたりする。 [83]

ズーズー弁に対する蔑視は、話や単語に気をつける国分の努力を素通りして、発音やイントネーションに対して向けられる。そして、このような蔑視が劣等感をもたらす。国分は言う。

私たちは、人間らしい目や気持で、せいいっぱいの言表をしようとしている。そのことでまわりの人びとのつきあいをやわらかなものにしようとしている。それなのに、よそのひとは、それには目もくれないで、うわべの耳にひびく発音・音声ばかりを問題にする。それへの不満はやはりつのる。けれども、きたないことば、げびたことばとの声が投げかけられる。これが心の底に憎さをひそめた劣等感となるのであった。 *5

 劣等感の原因が発音やイントネーションにあるとすれば、劣等感から逃れるためには、ズーズー弁を、気にすることのない「東北ズンミン共和国」を夢見るか、発音やイントネーションの矯正へと向かうことになる。

ズーズー先生たちが、関西の『ト抜け のことば』 (たとえば『苦しい、苦しい、ゆうて』など)を、すこしもとがめないし、見さげたりもしないのに、人びとは、気を使って話す東北人のことばをたちまち『東北弁』などと言い放ってしまう。『おたく、東北の人でっか ? 』飲み屋などでも、そばに腰かけている見知らぬひとが急にたずねたりする。 まるで外国人あつかいなのだ。こんなことがかさなると、ズーズー先生は、なんとなく『東北独立』の運動を起したくなる。東北ズンミン共和国でもつくって、くったくなくくらしていきたい気持にもなる。  [84-5]

あるいは、ズーズー弁が直るまでの間待ってくれるよう全国に向かつてお願いすることになる。

ズーズー先生は、みぎのような不穏 (?) な考えを、東北人にもたせぬようにするためにも、全国のみなさんにお願いする。もうすこし静かに待ってください。今は、読み方・つづりかたの指導、科学的な発音の指導、文字の指導、文法の指導、語い論の教育などが、東北の先進的な教師たちのあいだで、ぐんぐん進み、もしその成果があがり、またそれが普及するならば、みなさんの耳をいためたり、みなさんをおもしろがらせたりすることはなくなります。みなさん。どうかそれまでお待ちください。ご心配かけます。すみません……。 [85]

 だが、「東北」の独立は言うまでもなく、発音の矯正もまた劣等感の解消につながることはない。「東北ズンミン共和国」には、東京へ嫁いで行った女性 がズーズー弁であることを理由に離婚された話が書かれている。そして、その相手も同郷の男性であると言う。浅草あたりで炭問屋の第一番頭をしているという、 (どこまでも推測でしかないが) 店では標準語を話しているであろう男性がズーズー弁を蔑視する。標準語を覚えることによって解消されたかに見える劣等感は異なる形で現れているにすぎない。劣等感と向き合うためには、劣等感を生み出すことになる構造そのものが間われなければならない。例えば、宇佐美承は「北」と「南」を「ことば、気候、生産…と、すべてに恵まれぬ、抑圧された土地 」と「抑圧する側の人間を育てる土地」と捉える *6。そして、「東北」を「北」に位置づける。ズーズー弁に対する蔑視もこの関係の中で捉えられることになる。ここで重要なことは、「北」が「南」に同化することでもなければ、「北」が「南」から独立することでもない。「北」と「南」の関係そのものを見据えることである。 確かに、『ずうずうぺんぺん』は宇佐美の言う「北」としての「東北」を描き出している。だが、その一方で、「北」と「南」の関係を見据え、包み込むような眼差しをも描いている。

 2  東北への眼差し

 劣等感の背景には、宇佐美の言う「北」と「南」の関係がある。この関係をまず見据えなければならない。例えば、「ビドサガリ」では、幼い国分の次のような言葉がある。

 先生は、東京のよいことばが、こっちにくると悪くなる、それをなおすために、東京のことばをよくおぼえねばならぬと、しきりに言ったのだった。 [17]

 教師の言葉は、「北」と「南」の言葉の関係を典型的に示している。東北のことばと東京のことばを同じものと位置づけつつも、東北のことばを東京のことばが悪くなったものとして捉える。したがって、正しい東京のことばを覚えなければならないと言う。そこで、幼い国分はズーズー弁で言う「ピドサガリ」や「アガスケ」と言った言葉が東京ではなんというか尋ねる。だが、先生は答えない。そこで幼い国分はおもしろくなくなる。

 なんでも教えてやるみたいにいっているのに教えてくれない。これが小さいズーズー先生にはおもしろくない。そしておしまいには、〈あっちには、なんでも、よいものがあるていうのはウソだな。こっちにあるもので、あっちにないものもあるんだな〉との考えを起こしてしまう。―こういうことがなんべん もあった。 [19]

確かに、国分の問いは学校で答えるのには適切ではない言葉を含んでいる。だが、その点を除いたとしても、そもそも答えることの出来る問いであったのか。なぜなら、国分の問いは「北」と「南」の関係そのものに向けられているからにほかならない。

 国分の疑問は言葉の内容に向けられているだけではない。発音にも向けられる。幼い国分は学校で発音の矯正をさせられる。

口の形をよくして、ことばがスーと出るようにしなければならぬという。そこで口形練習をさせる。一年生のときからさせる。校長先生さえ壇にあがって、むちをもって、シー・ハー・ホー、シー・ハー・ホ一、ウーエ、ウーエといわせる。いきをうんとだして、シーのときには口ベラが、ひきつるぐらいまで、横へひっぱらせる。ハーのときには、口がシシヤパケル(破ける) ぐらいに大きくひらかせる。ウーエ、ウーエと、いまにももどしたくなるようにさせる。 [8-9]

だが、幼い国分にとって発音の矯正は違和感を感じさせるものでしかない。

それ (発音の矯正) が子どものズーズー先生にはたまらない。もとから重たくてゴツゴツするものがあって、それが重たいから、のどやくちびるにぶつかっているのに、口のかっこうさえよくすれば、ズーズーでなく、スースーと出るみたいにいう。 [9〕*7

「重たくてゴツゴツするもの」とは「ことば」である。

口から出ることばが重たくて、すらりと出なくて、出るとき、どこかにひっかかる。それで スースーとではなく、ズーズーと出ていくみたいな気になった。  [7-8]

だが、なぜ「ことば」が重たいのか。それは、「ことば」が生活とぴったりとしているからにほかならない。例えば、国分は次のように言う。

東京にいる叔母のところへ、イモガラ(里いものずいき) を送るのだという。いいつけられて小包のひもをしばっている。そのとき父親が、『ギッツグスバッタガ ? 』ときく。『うん、ギッツグ スパタ』と答える。すると、そのギッツグや、スパタが、いかにも重たく感ずる。重たいので、のどや口ベラのあたりに、ひっかかりひっかかりして、それは出ていくように感ずる。 [8]

ズーズー弁は東京のことばが悪くなったものなどではない。ズーズー弁のズーズーとは東北の生活の重さではないか。粘り強く己を主張する東北人の気質を指しているのではないか。幼い国分は、そう考える。このように考えるとき、国分は東北に暮らす自分たちの日々の生活を見出している。日々の暮しが、ズーズー弁を包むものとして現れてくる。自らの生活を見つめる国分の眼差しは優しい。突き放しつつも、どこか愛情をもって眺めるのである。そのような眼差しは「アネコ」において語られる母の眼差しでもある。「アネコ」とは次のような話である。ある日、担任の教師に言われ、ある家に弁当箱を届ける。その家には、以前国分の母が下女 (アネコ) をしていた家の娘がおり、その娘に国分は「お前、アネコのこどもだべ ?」と声を掛けられる。そのことに幼い国分は腹を立てる。

腹のそこが、にわかにムシャクシャしてきた。もとはアネコだったかもしれない。けれども今はアネコではない。今はおらの母親ではないか。それなのに、平気で、アネコなどと呼ぶ ! [151〕

怒った国分はきっと睨み、問いかけにも応じずに、かけるようにしてその場を立ち去る。家に帰って、そのフンマンを母親にぶちまけようとしたが、母親は店で仕事をしている。母を待つ間も怒りが収まらない。

ひとの家のものを、よくもアネコだの、オデンだのと言えるものだな。近所のおとなは、だれだって『オデンさ』とか『イヅダロ (一太郎)さの家のアッカ』というではないか。そうでなければ『床屋のアッカ』というではないか。家で『オデン』と呼び流すのは、父親と祖母だけではないか! これでは、なんとしても腹にすえかねる。アッカに、うんといってやらなければならない! [152]

この怒りを幼い国分は母に訴えるつもりでいる。母もこのことを開いたら、当然腹を立てるだろうと考える。だが、母の態度は幼い国分の予想とは大きく異なる。

 こみあげてくるくやしさをおさえかねているところへ、母親が勝手にはいってきた。ズーズー先生は、さっそく大きなフンマンをぶちまけた。ところが、母親は平気のへいざだった。
「ああ、あの女学校を出たツネちゃんか。あのツネちゃんは、あそこの姉妹のうづ(ち)で、一番いい娘だったなあ。んだ。いまでも、ここの前通って、おれが川ばたで、鍋など洗っているど、アネコ、からだ丈夫か、て、そばさよってきて、聞いていくな(の)だ。だんまりみたいだけんと、内心はいい娘でなあ」
 ズーズー先生は拍子ぬけがしたような気持で、母親のへろっとした顔を、なにもいわずに見つめた。けれどもやっぱり、また、
「んだって、ひとのアッカば、アネコなていって……」
とまだとけないしこりを胸に感じながら言いはった。
「いがにも、えばっているみたいだもの……」
 すると母親は笑いだしながら、
「んだって、アッカは、ほんとに、あそこの家のアネコだったんだもの。アネコアネコとみんなから呼ばれていたんだもの。オデンても、呼ばれていたんだもの。んだから、アネコといわれたってあたりまえだべした。な、あたりまえよ」
というだけだった。
「んだって、いまでも、そんなこと……」
「んだって、ツネちゃんなど、小さいころから、おれのこと、アネコアネコって呼んでいたんだもの。オデンても呼んでいたんだもの。いまになって、別な呼びかたなど、できないべした」
 母親は自分のことを遠くふりかえるような顔になりながら、〈あたりまえなことは、あたりまえと思え〉と、たしなめるように、こうくりかえすのだった。いや、そういうたしなめごとなどする意識は、ちっともないように、ごく平静にいうだけだった。
 こんなことで、ズーズー先生は、母親が幼い時から、よその家に出て奉公し、年に三円か四円の金を、生家のためにかせいできたことを、当然なこととこそ思っておれ、いじけたりなどはしていなかったことを、次第に知っていったのだった。そしてときには、
「いいアネコだからと、長い年数、助役さんの家においてもらい、それから、そっちからも、こっちからも、ゆずってくれ、ゆずってくれといわれて、あとではカクタ呉服屋にいって、それからお前のオッツァ (父) のところさ、嫁入ってきたのよ」
 と笑いながら話すときの母親の顔に、いつも、この点では、自信にみちたようなおももちをさぐりとって、なにかを考えずにはいられなくなるのだった。  [153-4]

 アネコとは下女に用いられる言葉であり、幼い国分にとって到底許すことの出来ない言葉である。この言葉から生じるフンマンは、宇佐美の言葉を借りれば「北」であることから生じる。「北」である国分が「南」に対してブンマンをぶつけるのである。(確かに、アネコと呼んだ娘も東北に住んでいる。だとすれば、「北」と「南」の関係を問うことは的外れのようにも見える。だが、宇佐美の言う「北」と「南」は単に地理的な問題ではない。) もちろん、母もこの言葉の意味を知っているに違いない。だが、アネコという言葉を聞くときの母の眼差しは、遠くへと向けられている。そして、ときおり自信に満ちた表情さえ浮かべる。このとき、母にとってアネコという言葉は下女と言う言葉には決して還元することの出来ない、家族との温かい結びつきをもったふくらみのある言葉として現れている。フンマンをぶつける国分の眼差しが「南」に向けられているとすれば、母の眼差しは「北」と「南」の関係そのものを包みこむ自分の暮しへと向けられている。そして、その眼差しは「北」である自分を「あたりまえ」のこととして突き放しつつも、どこか愛情をもって見つめるのである。


おわりに

 『ずうずうぺんぺん』には、ふたつの東北が描かれている。ひとつは劣等感を感じさせる「東北」である。劣等感を感じさせる「東北」は「東北」の人間である国分を苦しめる。したがって、国分は「東北」の独立を夢み、ズーズー弁を東京の言葉に近づけようとする。だが、そのような「東北」と国分とを、もうひとつの東北は包みこむ。ズーズー弁とズーズー弁に苦しむ国分を日々の生活が包み込むのである。自らの日々の生活を見つめる国分の眼差しは優しい。「東北」と苦しむ国分を「あたりまえ」として突き放しつつも、どこか愛情をもって見つめるのである。「あとがき」で書かれた態度の変化は、国分の東北に対する眼差しの変化であり、国分と東北との関係の変化である。

 だが、なぜこのような変化が起こったのか。この間いに対する答えは『ずうずうぺんぺん』には書かれていないように思える。だが、その手がかりを「アネコ」における国分と母のやりとりに見ることが出来る。国分のフンマンは、母とのやり取りのなかで、次第に消えていく。だが、なぜ消えていくのか。なぜなら、このとき国分は母の眼差しを受けとっているからにほかならない。アネコと言う言葉を下女としてではなく、生活と結びついたふくらみのある言葉として捉えるようになっていくのである。その後、国分は同じ娘にアネコと言われても腹を立てなくなる。 眼差しがこのように受け渡されるとすれば、『ずうずうぺんぺん』を読むものも、国分からこの眼差しを、そして東北をも受け取ることになる。『ずうずうぺんぺん』とは、国分からの贈りものとしての東北なのである。

                                 平成 22年12月31日  安部貴洋(東北大学)

[注]

*1 『ずうずうぺんぺん―東北のことばとこころ―』
   朝日新聞社、1977年、120頁。以下、[120] と表記。

*2 『ずうずうぺんぺん』の書評として、
   鈴木実『本・わが遍路』 (いちい書房、1986年)  
   を挙げることができる。

*3 本論では、国分に劣等感を抱かせる東北を「東北」、
  愛情を抱かせる東北を東北と表記する。

*4 『国分一太郎文集 7 芸術と教育を結ぶもの』
   新評論、1984年、242頁。

*5  同上、243頁。

*6 宇佐美承「国分一太郎と私の痛み」
  山田宗睦編『何のための知識シリーズ 4 人間の痛み』
  風入社、1992年、231頁。
  また、『国分一太郎文集 9 北に生まれて』
  新評論、1983年、「この巻を読んで」においても
  同様の趣旨を述べている。

*7 括弧内は論者。

[参考文献] 柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』 (講談社学術文庫)

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