『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

綴方理論研究会2月例会の報告と3月例会のご案内(2011年度)

綴方理論研究会2月例会の報告と3月例会のご案内(2011年度)

■2月例会(2012.2.19)報告―榎本典子さん  司会・早川  記録・工藤

 参加:乙部武志  本間夫妻  左川紀子  小山 守  榎本典子  榎本 豊  日色 章  田中定幸  早川恒敬  工藤 哲  中山豊子  国分真一 

◇講義 とつおいつ その46       乙部 武志さん
 実は、工藤さんから先日メールが入りました。例の池袋の会(注:2012年11月19日 第5回 国分一太郎「教育」と「文学」研究・学習会)の時の、私の開会の挨拶ですが、テープ起しをしたけれども、いくつか書き取れないところがあったので教えてほしいとのことでした。今日、工藤さんに、それを伝えることになっているのですが、そのひとつ、あの時、国分一太郎の短歌をご紹介したのです。あの時は、口頭で言っただけでしたので、聞いていて理解しずらかったかもしれませんのでね、今日は、あとで印刷したものをお配りしようと思いますが、あの時に、最初のところで、「岩崎の大人(うし)は逝きたり幼ならの魂たもち生きのきわまで」というのをご紹介したのです。

 でその、「うし」というのは、「大人」、これは本間さんの奥様に聞いたほうがいいかもしれないけれども、中国では、大体、先生、それもかなり敬っている方のことを大人と書く。「うし」というのは、日本での読み方で、古語ですね。この「大人」(うし)、古語の辞典を引いてみますと、慣用句みたいな形でもって、慣用句というか、枕詞みたいな形でもって、しょっちゅう使われているんですが、短歌をたしなむ方々というのは、そういう意味では、古語をよくご存知だということになりますね。

 それで、きのう手術をされた、あのお方に関してですが、やはり、短歌の先生、すばらしい先生がたぶんついているだろうと思うのですが、東北大震災のことを詠んだものが、新聞ダネになっていましたね。ちょっと、読み上げてみますが、ここにやはり古語が出てくる。「大いなるまがの痛みに耐えて」という出だしです。さて、「まが」、ひらがなで「まが」というふうに表します。何のことか分かりますか?、最後まで読んでみますと、「大いなるまがの痛みに耐えて生くる人の言葉に心打たるる」となります。「まがる」、「まっすぐじゃない」ということ、すなわち、大きな事件というような意味です。そういう意味で、「まが」。まがっていること。曲折、こう、ぐるぐる、ぐるっと、とにかく、常の道じゃないことを「まが」というようです。なかなかやっかいですよね。それで、「うし」なんていうのも、とつぜん言ってみても、なかなかお分かりいただけないと思うので、挨拶の時、あそこでいささかの解説を試みたわけだったのです。

 で、どういうふうなことで、国分一太郎は、「岩崎の大人(うし)…」というふうに書いたのかということですが、あの会が終わってから後、文献を手に入れました。『遺稿 岩崎徹太』といいます。

 例のあの、子どもの詩、『日本の子どもの詩』、あれの出版記念会に出られましたか?いろんな人が挨拶に立って話をしたと思うんですが、岩崎書店が出した47巻の『子ども日本風土記』がありますよね、それらが出版された年月なども、彼、岩崎徹太の年譜という形で、ここにこう出ています。これ、追悼集みたいなものですけれどもね。彼、岩崎徹太の文章も、いくつか出てまいります。ぼくは、回数からいったら、ほんの2、3回しかお会いしたことがないのですが、実に堂々たる体格の方でした。ここにも、その体格を示すような、人さまとならんで撮っている写真があるんですけどね。そういうのを見ても、びっくりするくらいの偉丈夫です。そういう方なんですけれども、国分一太郎が「大人(うし)」というふうに言った、それは、ただ単に、尊敬して、「大人(うし)」という、いわば常套語みたいなふうに使ったのではなくて、この威風堂々たる、その体躯ということも、思い浮かべていたのかも知れません。

 大変な剛の者だったみたいです。自分で書いた文章の中で、出版のことに関して、不正を働く、不正のところに、ヤクザ風の者が介入をしてきて、それに対して、自分から単身出かけていって、玄関で大声で自分の来た趣旨を言って、まさにあたりを睥睨するというようなことをしたなどというようなことが、彼の、彼自身の文章として出ております。

 いずれにしても、ここに、追悼集という形で出した人たちの中には、みなさんもご存知の安野光雅だとか、井野川潔などもこの中に入っておりますし、日本作文の会の顧問などをした高橋磌一、歴史協議会の方ですよね。そのほか、そういう関連の方が、たくさん出ている。その中に、 国分一太郎が、この「岩崎の大人…」ということで、追悼のそれを寄せているということなんです。

 話があちこち飛びますけれども、岩崎書店というのは、今、言いました二つの、47都道府県のですね、日本作文の会編の子どもの本を出した。『子ども日本風土記』というのと、それから『日本の子どもの詩』という、全県のものを出した。

 ぼくなども、この中の何人かとは、お付き合いがあるんですが、どうも消息が、その後、はっきりしないのが、その衝にあたった中村良彦氏が、まだお元気なのかどうなのか。どうも、一度、亡くなったという知らせを、どこか風の便りで聞いたような気がするんですが。彼が仙台市に移ってから後ですが、例の皇太子のところの「愛子」誕生の時、「愛子」(あいこ)というのは「あやし」とも読めますよね。で、仙台の区の中で、昔、愛子町(あやしまち)、愛子村(あやしむら)といったかな、そういうところが、仙台の中に含まれてしまったのね。駅前に行きますと―よく観光地にあります、顔を出して写真を撮らせるというのがありますよね―、駅前に行きましたら、それに、「愛子」(あいこ)にちなんで、「愛子の里」(あやしのさと)みたいな宣伝文句が書かれていたのに、ぼくは、行き逢ったことがありますけれどもね。 話があっちこっち行きますが、そんなわけで中村良彦は、その愛子(あやし)の地区に住んでいたんです。彼は、どういういきさつで、岩崎徹太と会ったかというようなこともこの本の中に出てきますけれども。

 この本の中から国分一太郎の短歌を抜き刷りしておきましたので、今からコピーしたものをお配りいたします。この中で、われわれと関係のあるのは、『電話すれば、「子どもの本の岩崎です」との返事(いちえ)あり大人(うし)喜びてそれをさせしか』という2首目。「返事(いちえ)」、これも古語です、返事というののね。社員が全部、電話に出たら、かならず、「子どもの本の岩崎です」というふうに答えるようにしつけられているのです。ワンマン社長で、みんなガミガミガミガミ怒られたってっていうようなことをさかんに書いているのですけどね。で、もうひとつ、われわれに関係があるものが、四つ目。四つ目は、「大人(うし)のため吾が説きしこと幾日へず大人(うし)は説きおり己が説として」。これは、大人(うし)のため国分一太郎が話したことが、何日もたたないうちに、今度は、自分でそれを枕にして、人々に説いたということを、そういうふうに書いている。それが4首目に入っております。

 後で得た知識なのですけれども、岩崎美術社という、関連の会社がひとつございました。そこの本を、ぼくも何冊か買って読んだことがあるのですが、一番先に買ったのが、安野光雅のカット集だったのです。『カットのエスプリ』といいましたかねえ。そういう本だったのですが、なぜ岩崎が美術社などというようなことをやったのかと思ったら、わけがありまして。奥様が、やはりなかなかたいへんな才女だったようであります。亡くなられていまして、『残りの花』という彼女の遺稿集、ここにあるのですが、ずらあっと短歌が出てまいります。これを読んでいましたらば、何か奥様のための、新しい会社を興したみたいなんですね。そこの社長に、奥様、治子というお名前なのですが、奥様がなっています。それが、何代か続いたようですけれども、どうやら今は、統合されてしまって、美術社は存在しない。ほかに、あと三つ、全部で五つほど関連会社を持っているようです。

 そのようなわけで、われわれ日本作文の会が大いに世話になった方、そして、国分一太郎が昵懇だったというようなことも、ひとつ銘記しておいたほうがいいのじゃないかというような気がするのです。

 ついでながら、この岩崎徹太という人は、反骨の士でありました。ひじょうに気性の荒々しい方のようで、何か争議があったりすると、必ずその真ん中にいるといったふうであります。出版協会などでは、いつでも、自分から買って出て、会長をやったり、あるいは相談役をやったりというようなことをした人のようです。そういう関係もあってでしょう、岩崎学術出版社だとか、とにかく、五つの会社を興した人だったということであります。

 話がちょっと飛びますけれども、今日の研究会のお知らせに、榎本さんが、風濤社の『地獄』のことを入れてくれましたが、この本、驚くなかれ、30年前の出版物なのです。それが、現在、このようにリバイバルになった。これ、千葉県のお寺の、ぼくも、禅宗のお寺が菩提寺だったんですけれども、座禅会だとか何とかというと、必ず地獄絵図が本堂にずらあっとならべられるんです、秘蔵のものがね。もう、見るからに残酷極まりないものばっかりなのです、その絵が。お寺には、そういうことでは、昔は、こういうものが普通に飾られていました。

 ぜんぜん知らない漫画家なのですが、「うちの子が、これで悪さをやめました」という、帯封にそういう推薦文が書いてある大判の『地獄』があるというので、ぼくは、それを探しに行ったのですけれども。三つ、四つと本屋に行っても、とうとうないんですよ、その大きい、その帯のついた本がね。紀伊国屋、それから渋谷、そして本店と、三つ歩いたんですけれども、ありませんでした。そういうことで、その推薦の、この帯封に書いてあるそれを読むことができなかったんですが、出版人として、さっき岩崎徹太のことを言いましたけれども、これを出したのが、高橋行雄という男なんです。風濤社という社で。彼、高橋行雄は、今はもう引退して会長ということですが、毎日、焼酎を飲んでいます、もう大変なもんですよ、毎日。会社で、会社に出て行ったら焼酎飲むんです、ずっと飲み続けて、集まってくる連中にもね。

 この人は、非常に筆が立つ男で、何度か、これにも手紙を添えてもらっているのですけども、息子が二人おりまして、一人が陶芸家、ひとりが社長職を継ぎましてね。今回、ひじょうにたくさん推薦文を書いてもらったりして出たんですが、こういう形(注:小型本)でもって、また絵本を作ったんです。今度は、『地獄と極楽』。紀伊国屋の本店は、これを3冊置いてありました。そのうちの2冊を買ってきましたけれども、最初に『地獄』があって、次に、『極楽』。これは、京都のお寺の所蔵のもので、今度は、地獄とちがって、本当に心の休まるような、すばらしいものですね。

 あれこれと話をしてきましたけれども、私、無作法なことに、今こうやって帽子をかぶっておりますが、この帽子、私にとっては、命を救ってくれた帽子なものですから、失礼を省みずこうやってかぶっているのです。謎めいておりますが、こうして帽子を上げてみますと、ここのところに、二つ、まだ傷跡が残っております。この前のぼくの「とつおいつ」の枕のところが何だったかというと、林光が亡くなって、追悼記事を谷川俊太郎ひとりが書いただけで、あとぜんぜん出ていないという話をしたのです。そうしましたら、亡くなってからひと月以上も経った2月4日に、節分の翌日か、立春の日だね。「作風を超えた天才 林光さんの足跡」って、こういうふうにでかでかと出たのです。池辺晋一郎が書いたものです。
                 
 これを見た時に、一番目が行ったのが、出だしのところです。「誰にも年齢のことなど感じさせなかった。そういう元気さだったのが、9月末に道を歩いていて転び、後頭部を石で強打。意識不明のまま、3ヶ月余、病院ですごされた。そのような状態が半年続いたあと覚醒する例もまれながらあると聞き、あの林光さんならば、そのまれな例の一つになるに違いない。」ところが、もう逝ってしまった、というふうなことでもって、こういう文章を見て、後ろへ転ぶってことは大変なことだなあと思ったんです。先週ですが、買いものに出かけることになって、本当は、スクーターでダーっと行って帰ってくればいいのですけれども、なるべく歩くようにしているものですから、歩きで出かけました。まもなく、そのお店の前というところで、そんなことありうるわけがないと思うのですけれども、みごとにつんのめってしまった。それで、ここを強打してしまったのです。ああこれで私もおわりかなと思いましたね。
 
 出血は大したことなかった。だけども、傷跡が二つ。国分一太郎は、ここに白毫(びゃくごう)みたいに、黒いホクロができて、やがて消えてしまったけれども、「おれ、お釈迦様みたいだろ。」って言っていたことがありますよね。私は、白毫(びゃくごう)でなくて、二つまさに赤いのが、できてしまった。

 林光の記事を見たから、後ろに倒れまいというふうにばっかり思っていたら、驚きました、前へ倒れてしまった。この帽子をかぶっていたおかげで、これですんだのです。意識を失ったわけでも何でもなかったから、帰ってきてから、見てみたら、手袋はめていたので、手には傷がほとんどないのです。ところが、こういうふうに、しっかり紫色になっています、内出血したんですね。だからねえ、ぼくは、悪運が強いというかねえ。早川さん、まだもうちょっと、生きるよ、ぼく。(早川:いいねえ、いい話だ。)ねえ、相当にも生きそうだ。そして、この「地獄」を探しに行ったわけですよ。(笑い。早川:落ちがあるんですね。 笑い。)

 出版人が、30年前のものをリバイバルで出して、そして通算ですけれども、11万部を越えたというふうに出てますね。リバイバルの形で、しかも今度は、新版という形でもって、こうして出したんで、ぜひみなさんにお目にかけたくて、ということは、私の個人的なことだけだったらば、こんなことをするつもりはなかったんですけれども、実をいいますと…、これも、因縁だね、本当に。こういうふうなもの、『二年生の日記』という、こんなふうなもの、これが、実は、ぼくと風濤社の付き合いの一番最初なんですよ。

 この『地獄』の時にも、こんなものは出しても売れっこないと思ったのだけれども、この企画を聞いたときは、こちらの方はもっと売れないと思いましたね。何のことはない、この『二年生の日記』は、日記帳なんです。日記帳ですよ。この日記帳、うたい文句は何かと言ったら、この罫そのものも、滝平二郎。滝平二郎は、もう朝日にずっと連載していましたからね。そういう彼に、わざわざやってもらっている。だから、ここのカットも、みんな滝平二郎。これ当時のお金だって、決して安くはない、これを430円で売ったわけです。ノート、何冊買えることか、430円ならばですよ。これは、今、この日付けを見ると昭和43年となっています。そういうことなんですけれども、私は、どんな仕事をしたかというと、実は、この『二年生の日記』は、亀村五郎が書いたんです。3年生が、ぼくなんです。3年生のものを探したのですけれど、出てこない。ぼくのは、もうちょっと探さなきゃ出てこないみたいね。

 ここのところに、必ず、ずうっとコメントを書かされたのですよ。これ、伊豆の長岡だったかな、伊東だったような気がする。伊東にかんづめになって、そして、一晩でもって書かせられました。いちいち、《雨がふったので『エルマーのぼうけん』という本を読みました。その、おもしろかったところを書くっていうのですか。よしよし、それもいい日記です。》こんなふうにコメントをつけていくんです。これは、亀村五郎が書いたものですがね。これを、一晩で全部書かせられた。それが高橋行雄と付き合った初めなんです。で、なぜ彼が、日本作文の会に目をつけたのか、それは、あとでよく分かってくるのですけれども、彼が、あの界隈の、といっても、百合出版、前の百合出版があったあたり、あの百合出版のあったところの隣かなんかに、酒屋があるんですよ。その酒屋が、よそでは扱っていない鹿児島の芋焼酎を置いていた。その息子が、鹿児島の蔵元に修行に行った。その時飲んだらもう、これはすばらしいっていうんで、彼がそこに浸りっきりでね。その焼酎を買ってきて、ぼくらにも、分けてくれたりなんかしたことがあるんです。よくよく聞いたら、彼が一番最初に職を得たのが、酒屋の問屋みたいなところで、しょっちゅうやっぱりただで飲んでたらしい。それが病みつきになってという。そういうことがあるのですが、この本(注:『風』)は、彼が70才になった時かな、その時に、周りの連中から、まあそれこそ大人(うし)というふうに言われていたあの界隈で、例の『社会評論』だとか、みなさんは場合によっては知ってるかもしれない「パロル舎」。図書を扱っている人なら分かるでしょう。宮沢賢治の童話をずらっと―小林哲也じゃないかな―そんな名前の絵描きさんに、ひとりで描かせた本です。何十冊、二十冊くらいあるかな。それをひとりで描かせたという、そういう「パロル舎」。そこの石渡というのが世話をしてこういうものができたというんですけれども。ということで、ひとつ出版人たちにも、そういうものがあるんだということ、あったんだということをちょっと紹介いたしました。

 今、ぼくみたいに、こうして家にずっといる者にとって、新聞をくまなく見ていくということの大切さっていうのを感じましてね。特に、橋下の件というのは、やはり相当にわれわれ、心してこれから対処していかなきゃいけないんじゃないか。もう、競争に勝たないと生活維持できないというようなこと。まず慎太郎がね、なかなか用意周到な男で、危険には近づかないような、近づいているようなね。「船中八策」というと、あれはおれが言い出したんだ、などと、すぐにそう言うような性質(たち)の人でしょ。そういうことで、考えなきゃいけないなってこと。それから、もうひとつは、この高橋行雄の場合もそうですが、『風』の中で、大池文雄という方が序文を書いている。その中で、高橋行雄のことを、「水戸コミュニストの系譜に連なる人である。水戸コミュニストとわざわざ水戸を冠しているのは、幕末維新のさきがけとなった水戸天狗党になぞらえた呼び名である」、と。で、やはり、彼なんかも、除名組のひとりですよね。国分一太郎と通じるところは、そこです。それで、日本作文の会の事務所が、近所にあるということもあって、われわれというか、日本作文の会に頼んだのではないか。その中で、亀村五郎と私めが指名を受けて、そして、今言いましたように、2年生を亀村五郎、3年生をぼくが書いたという、そういうことで、一応、報告をしておきたいと思います。

 で、話をまとめのほうにまいりますけれども、今ずっと、ぼくは、少しずつ少しずつ、本を整理しているという段階なのです。で、この前は、学習指導要領ですが、皆さんに、こんな古いものがありましたというふうにしてお目にかけました。先ほど、この岩崎徹太に連なる者として、井野川潔などのことをちょっといいましたが、やはりこういう『振興教育』、これは、もちろん、復刻版です。こういうふうなものは、やっぱりどこかで目を通しておかなきゃいけないんじゃないか。1932年、ぼくは、1929年の生まれでありますから、わたしがまだ2歳か3歳の頃のものですがね。こういったものも、少しずつ整理をしながら、旅出の支度をしておりますのでね。この前紹介した指導要領などもみんな、置いてまいります。温故知新というわけじゃないんですが、この古い、復刻版など、今、「生活学校」だとか、そんなものが、下に行きますとずらっとありますけれども、そういうものにも、目を通しておいたほうがいいなあと思いつつ、整理をしております。

 今日は、榎本典子さんが立派な準備をして待っていますのでね、このへんで終わりにいたします。


《提案》
 『子どもの文章表現から学ぶ』
     ~文章表現から見える子どもたち~
提案者   榎本 典子さん(板橋区立板橋第一小学校 四年担任)
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 昨年まで若い男性教師が担任だったのが、その担任は、一年生にかわり、急遽、典子さんが4年からの担任となりました。途中からの担任交代ということもあり、さらにはさまざまな家庭の事情を抱えているといったこともあり、クラスの子どもたちは、反抗的でひどい、いやがらせ、挑発をしてくる。時として、子どもたちを「大嫌い」になりそうになりながら、書かせること、子どもたちの書いたものを読み続けることを通して、子どもたちを見つめ直していこうとする。なにやら、壮絶な闘いといっていいほどの実践報告でした。

《論議・概要》
◎子どもの良さをとらえていこうと努力をしているところがいい。
◎文章表現させる中で、担任の先生が子どもの内面をとらえている。おもいやりがあるとか、やさしい面があるなどと見つけて伝えている。先生が思い、それが本人にも伝わり、まわりの子どもたちにも、それが共有されていく。文章表現させることのよさだと思う。
◎日色さんが、手立てを知っていれば知っているほど、書かせることの実りは大きいという話をしたが、榎本さんは、その手立てをよく身につけている。これが、大きなことだったろう。子どもたちに、書かせていなかったらどうなっていたか。書かせたからこそ、子どもたちは変わってきている。書かせることの意味を、もっと拡げていく必要があるだろう。
◎大変な学級だったことが分かる。しかし、こういった現象は、ほかのどの学級でも、同じだと思う。昔も、学級には、「ずれ」や「食い違い」がすごく多かったのだけれども、今は、とんでもない「ずれ」と「食い違い」、学級の中に、活断層だらけという状態。そういうような表現をしてもいいくらいになっている。
◎学級の中の子どもが大変なだけではない。今は、保護者にも大変な人がいる。一方的なことを平気で言ってきたりなど。気の弱い担任だったら、病気になる。
◎榎本さんの実践の決定的なところは、参考作品を持ち込んできたこと。これがあるとないとで、ぜんぜん違う。若い先生ができないのは、これなんだよね。子どもたちに密着した作品とか、その学級に密着した作品、あるいは今後の方向性を決定づけるような作品といったものを提示できない。榎本さんは経験があって、いろいろなのを読んでいるから、これを持ってきて紹介した。それがよかったのだと思う。参考作品を使ったことで、いい動機づけになっている。
◎指導題目を決めて、一連の指導をぜんぶきちんとやれるというのは、長く実践を続けてきた典子さんだからできた。2週間かけて取材をさせたあと、記述に入る前に、書き出しの指導なんていうのもやっている。これをやっただけでも、これから書いていくことが、子どもの中で、非常に整理されていくね。こういった指導の方法があるんだということを、これからの若い先生たちに伝えていかなければいかない。4年2組のこどもたちは、いい指導を受けたね。指導題目を決めた指導ができるという、これがあると、普通、崩壊していきそうなくらいの子どもがいたり、保護者がいたりという中でも、そういう力、方法を身につけていることが、戦い続ける武器になっていくんじゃないか。
◎教育は、螺旋階段を上るようなもんだという話があったけれども、ちがうのではないか。むしろ、スイッチバックだと思う。一回戻って、スイッチバックしてまた上っていく。
螺旋じゃなくて、行ったり戻ったりしながら、上っていくようなことかなあと思う。
◎指導過程の中で、「題材決定」の指導は、むずかしいだろう。ここは、誰でもできるというものではない。何を書かせるか、そういうのをよほど頭に入れていないと、ひとりひとりに合った題材決定をさせられない。ここのやり方は、少し気をつけて研究をしたほうがいいだろう。
*このへんまでで、論議48分。このあと、1時間10分ほど、話し合いが続きますが、このへんでやめます。
                                                  (文責:工藤)

綴方理論研究会3月例会のご案内

  
時  2012年 3月26日(月)午後1時より

所  乙部武志邸(東京都世田谷区代田6―19―2・03-468-0973)

◆講義・『とつおいつ47』      乙部 武志さん

◆提案・『二年生の作文指導』 
          墨田区立業平小学校(2年担任)
                  中山 豊子 さん

◆《打ち合わせ》
・会計口座について

*会費5000円を徴収しますので、ご予定ください。

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