『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

第6回 国分一太郎「教育」と「文学」研究会・写真による報告

第6回 国分一太郎「教育」と「文学」研究会・写真による報告

一日目  お墓参り

墓前祭
東根市津河山のほとりにある国分家の墓所にて、午後1時より墓前祭が取り行われた。


陽ざしが強く、汗がふき出してくる。

一日目 第一部 『わが町ひがしね一太郎』

こぶしの会会長:大江権八さん
国分一太郎・こぶしの会会長 大江権八さんのあいさつ。


長瀞小学校校長:橋場正巳さん: 
長瀞小学校校長の羽柴正美さんのあいさつ。


東根市教育委員会教育長小関正男さん
東根市教育委員会教育長小関正男さんのあいさつ。


司会を進める山田亨二郎さん
司会を進める山田亨二郎さん


朗読を披露:渡辺貴代美さん
朗読をする渡辺貴代美さん。『いなかのうまいもの』(1980年・晶文社刊)より、《「だし」の話》。

「だし」の話

だし

 わたくしの生まれ育ったところは、山形県の村山地方だが、ここでは普通にいう「だし」をつくらない。「だしコンブ」のことは知っているけれども、それを使って「だし」をつくるような家はめったにない。だから去年の秋、上京した弟に「青森の友だちが送ってくれたコンブがどっさりあるから持っていかないか」といったら、「だしコンブか」ときいた。「そうだ」と答えると、「それならいらない」とあっさり敬遠した。
 しかし『だし』ということばは、ちゃんとあるのである。それは料理の名前として、昔もあったし、今もある。
 いってみれば、「だし」は朝の料理である。わたくしたちが小さいころ、祖母や母がよくつくってくれた。ご飯をたいているあいだに、庭のすみにはえたミョウガの茎とシソの葉をつんでくる。ミョウガはもちろん「夏ミョウガ」で、れいの竹の子のように出る緑色のものである。「ミョウガの子」といわれている秋に根元へ出るあれではない。この「だし」をつくるための用意でもあろう、ミョウガがかたまって出るところには、冬になる前に、米のもみがらやおが屑を山とかけておく。だから春に出る芽は、掘りとると二十センチも三十センチもあり、根もとのところが水々しく白い。そのミョウガと青シソの葉を、みじんにきざむ。母がことことときざむまな板の音と、つよい匂いがわたくしたちのねているところまでつたわってきて、「けさはだしだな」とわかることさえときどきあった。深い丼に、そのみじんぎりを入れ、それに醤油をたくさんぶつかけて、木のさじをつけて、茶ぷ台に出す。わたくしたちは、それを、歯の先まで熱いような飯の上にかけて、飯といっしょにかきまぜてたべる。そのなんとも言えない匂いと味。その朝は味噌汁をすうことも忘れたりした。
 わたくしたちのところではこれを「だし」といった。前にいった葉が広がりしげるのをじやまする用意のおかげで、ミョウガの新芽のやわらかさが、なおつづけば、その「だし」には、あたらしくできた生キュウリのみじん切りも加えられた。これが秋になれば、ミョウガは「ミョウガの子」と変り、キュウリのかわりに生ナスのみじん切りが加えられる。
 これを「だし」というのだった。わたくしたちは、「だし」とはこういうものだと思いこみ、この匂いよく味のよいものをありがたがった。そしてほかの「だし」というものを知らなかった。まるで老人ごのみ、酒のみごのみみたいなこの味と匂いを、幼いころから舌の先に味わって、これは舌の焼けるようなあついご飯にかけて食うものと思った。昼間、つめたいご飯にかけて食ったら、うまくないことを自然と知って、「あすなさも、だしをつくってくれな」と祖母にせがんだりした。かつおぶしだの、コンブだのを、めったに使うことのでない東北の人間たちが、ある季節の地べたからひろいだす新鮮な味と匂いを生かすやりかた。これが「だし」というものであっただろう。いま思いだしても、わたくしには、てらうような気持からではなく、ほんとにつつましいものだったのだなあと考えてしまう。「あれをだしと名づけたとは」と… 。
 さて、東京に住んで三十年。わたくしは今も、この「だし」のことが忘れられず、毎年、いまごろの季節からは、これをつくって、自分も食い、家族たちにも食わしている。そのために、せまい庭のすみには、ミョウガも移し植えた。アカジソとアオジソは、どういうかげん か、ひとりで生えるので、そのアオジソの方を利用する。しかしひとりで生える東京のアオジソは、植物分類学でいうエゴマに近く、油くさくて、この「だし」の味をぶちこわす。それで八百屋で売っている根付きのアオジソを買ってきて、その根をやはり庭先に植えこまなければならない。ときには、その八百屋で売っているアオジソさえ、工業用油をとるエゴマに、品種として近づいているときがあって、買うとき鼻先でクンクンかぐものだから、店のおやじに変に思われたりする。ただ、東京でよいのは、季節おかまいなしの促成栽培ナスが店先に出るので、この「だし」に、いつでも、ナスのみじん切りが入れられるということだ。どうせ東京のは「にせだし」だから、わたくしの手製「だし」には、東北方言でいうボヤボヤとのびひろがったミョウガの茎と、アオジソの葉と、ナスとキュウリと、トウガラシまたはピーマンなどのこまかいこまかいみじん切りが、ごったにまじりこんでしまう。それに醤油と、放送用語でいう「化学調味料」がはいるわけである。ただしキュウリを入れるときだけは、実のひきしまったものを用い、変に水気が多くてこの「だし」の味を殺す奴は使わない。
 この三、四年、信州育ちの女房も、子どもも、はじめは「父ちゃん、変なものをつくる」といっていたのに、いまはうまそうに食ってくれる。ざまあ、みあがれ ?ただ、去年からモスクワに行っている長女に、ことしはこれを食わせられないのが、ちょっと残念なだけだ。
                                                                                (一九六八年 )

       『いなかのうまいもの』 (1980 年・晶文社刊 ) より



独唱:斉藤文四郎さん
「こぶし花 」(作曲 青木 博子)、「かやしょい」(作曲 大島郁太郎)、「日ぐれの酒買い」(作曲 野間義男)を独唱する斉藤文四郎さん。ピアノ伴奏は、渡邉ゆき子さん。


アップルコーラスのみなさん
アップルコーラスのみなさん。「春が来る」(作曲 須藤 円)、
「雨の遠足」(作曲 須藤 円)を披露。
まん中は、指揮の渡邉ゆき子さん。
一番左は、ピアノ伴奏の矢萩美穂子さん。


アップルコーラスのみなさんたち
退場するアップルコーラスのみなさんたち。

一日目 第2部 講演「国分一太郎の科学教育・自然教育への思い」

一日目の第2部は、「国分一太郎の科学教育・自然教育への思い」と題して、平林 浩(科学クラブ主宰)さんの講演。
講演する平林 浩さん
講演する平林 浩さん

1日目 夜の懇親会

寒河江文雄さん
寒河江文雄さん(山形県長瀞小学校想画を語る会・会長)

 

二日目 分科会『つづり方のある教室をめざして』

司会進行をつとめる早川恒敬さん
司会進行をつとめる早川恒敬さん。


報告をする中田崇彦さん
報告をする中田崇彦(大阪つづりかた教育教育研究会)さん。

二日目 分科会『「胸のどきどきとくちびるのふるえと』をなくすとは

報告をする梅津恒夫さん
報告をする梅津恒夫(山形・元高校教師)さん。


司会をつとめる田中安子さん
司会をつとめる田中安子さん。

二日目 分科会『国分一太郎の学芸大学特別講義から学ぶ』

報告を続ける田中定幸さん
報告を続ける田中定幸さん。


 国分一太郎による「学芸大学特別講義」は、1984年5月16日から7月にかけて、『生活綴方と昭和国語教育史』という題目で5回にわたって実施されている。東京学芸大学の教授だった田近洵一の招聘で実現したものである。その第1回目のビデオをテープ起こして、田中さんは報告をしている。
 第1回目の講義題目は、『僻地出身、あるいはズーズー弁で有名な東北出身の教師たちがなぜ全国的な国語教育の指導者になりえたか』というものである。

一部、ビデオを放映。
「続き、みたいでしょ!」
などと冗談をとばしながら、報告が続けられた。

 へたにまとめるより、田中さんが用意したレジュメを載せる。

■第 6 回国分一太郎「教育」と「文学」研究会報告

             2010.7.25 於・東根タントクルセンター

国分一太郎東京学芸大学特別講義から学ぶ ー1

             国分一太郎「教育」と「文学 」研究会 田中 定幸

一 学芸大学特別講義とは

 1984 年 5 月 16 日から 1984 年 7 月にかけて東京学芸大学で 5 回行われた
 招聴したのは田近淘一教授
 世話をされたのは大熊徹先生
 題目「生活綴方と昭和国語教育史 j

二 第 1 回目の講義
・日時 1984 年 5 月 16 日午後 1 時 10 分~午後 4 時 10 分【 2 コマ分 }
・演題「僻地出身、あるいはズーズー弁で有名な東北出身の教師たちが、なぜ全国的な国語教育の指導者になり得たか。
・結介田近淘一教授

1 講義のはじまり
 今、ご紹介いただきましたように、だいぶ年をとりまして、胃袋を 5 分の 4 ばかりとられてしまいまして、 5 分の 1 しかないものですから、たまにはふらふらすることもあります。
 1911 年、明治 44 年の生まれで、こうして話しますとわかるとおり、ズーズー弁の山形 県の、貧乏な小さな床屋の 8 人兄弟の長男。その床屋は「散髪屋 j ですから、パーパーでなくて (笑い) ヘヤーカッターのほうですな。そして、 1930 年、昭和 5 年に教員に なりました。
 その頃からのことを田近先生から、ここで話すようにとのことですが、きょうは第 1 回目ですから、綴方教育とか作文教育につながっていく前のこととして、もすこし広く、 国語教育、読み方教育といわれているようなことから、お話したいと考えています。

 題目は、「僻地出身、あるいはズーズー弁で有名な東北国身の教師たちがなぜ全国的 な国語教育の指導者になりえたか J と、ずいぶん長い題ですがネ。簡単にいうと、「僻地あるいは東北のズーズー弁のようなところで、生まれ育った教師が、なぜ全国的な国語
教育・読み方教育の仕事などのリーダーになったか」ということです。
 ただしこれはですね、私のような人聞を言っているのではありません。私よりも、 10歳か 15 歳上ぐらいな人たちが、そういう位置を占めたことがあるということですね。

2  講義の構成

 題目と設定の理由
 東北 ( 僻地出身 ) 教師と方言・アクセント←自身のことから
 青年教師遠の願い
 教育の現状
   国定教科書
   子どもの貧困
 そこで行われた教育
 その裏付け
 結論
 国語国字の合理化
 我流

3  講義からみえてくる国分一太郎のすばらしさと私たちの課題
 
 ・着眼点

 ・教師のありかた

 ・子どもを育てる

 ・読み書きにカを入れざるを得ないその理由
   読み方教育がささえるもの
   国着性

 ・話術 板書

   その構成力
   
   例示

4  「広め」「深める」

 国分一太郎研究の入門集大成として

 教師のありかたを求めて

・講義の再生にあたって



テープ起こしをした第1回目の資料は、A4判で20ページにも及んでいる。
すごい時間と労力がかかったことと思う。
田中さんの講義内容等に関する分析もさることながら、この資料自体も第1級のものと言っていいだろう。

5回行われた講義のうち、第2回、3回、4回、5回がまだ残っていることになる。

画像の鮮明な元版をまず手に入れる必要がある。

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