『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

国分一太郎年譜 8 (70歳~73歳)

国分一太郎年譜 8 (70歳~73歳)

1981(昭和56)年 70 歳
 1月、東京で第30次日教組教育研究全国集会がひらかれるが、病気のため欠席。33年間講師をつとめるあいだ、ただ一度の欠席であった。

 3月「障害者の教育権を実現する会」の第10回総会で、亡くなった梅根悟のあとをついで代表顧問に就任。

 8月、第30回記念・作文教育研究大会 (横浜市)で記念講演「こんな子どもに育てたいので」。

 山形県人雑誌『月刊やまがた』9・10月号にやまがた紳士録「感性の母体はふるさと、国分一太郎 (上・下) 」掲載される。

 この年、大田堯らによって「国分一大郎著作集」の企画がすすめられ、暮れに、有志の執拗な説得にあって応ずる。また、わかい日『鑑賞文選』『綴方生活』『生活学校』などの雑誌を通じて大きな影響をうけ、自分もそこではたらきたいと思っていた池袋児童の村小学校を、活字のうえで再現することに執念をもやし、その仕事を元『朝日ジャーナル』編集部の宇佐美承に託す。宇佐美はそれを1982年『週刊朝日』に「児童の村物語」として連載、1983年『椎の木学校―「児童の村」物語』として新潮社から出版。

1982(昭和57)年 71歳
 「国分一太郎著作集」を「国分一太郎文集」と名づけることをみずから提案。またその編集に精力的にとりくむ。

 4月から『解放教育』に「小学教師たちの有罪」の連載をはじめる (1983年3月まで) 。

1983(昭和58)年 72歳
 4月から『解放教育』に「みどりの風のふくなかに」を連載しはじめる。

 7月、東京・早稲田奉仕園図セミナーハウスでひらかれた「国分一太郎とともに語る会」(主催『国分一太郎文集』編集委員会、後援新評論) に参加。「子どものねがい、教師の立場」について話す。パネラーは編集委員の宇佐美承、冨田博之のほか野呂重雄、村田栄一。出席70余人。

 11月、福島大学教育学部国語学国文学会にまねかれ、記念講演「教育であること、言語の教育であること」をおこなう。夜、大学の国語教官らと交流する。

 12月、長男真一、交通事故にあい、心をいためる。

 この年から、国分一太郎研究を志すわかい人びとに、過去をとつとつとかたりはじめる。また、『国分一太郎文集』編集にいそがしい日々をおくる。

1984(昭和59)年 73歳
 2月5日、神戸でひらかれた日教組第33次日高教第30次教育研究全国集会全体集会で記念講演。演題は「『昔とこれから』と、そのあとの『昔とこれから』と。

 3月、財団法人解放教育研究所理事予定者として、設立発起人となる (1985年3月設立) 。

 6月1日、弟正三郎の長男の結婚式に出席のため帰郷。あいさつのなかで「わたしの骨を東根の津河山の墓にいれてほしい」とかたる。

 6月30日、村山市でひらかれた第3回山形県作文教育研究大会で記念講演。演題は「いま、作文教育に求められているもの」。この大会出席に先だち、なが年その主人としたしくしてきた「荒木ソパ」で、同行した東京の仲間たちとソパの味をたのしむ。

 7月2日、同大会終了後の足で、上山温泉でひらかれた『戦後30年の上山子ども詩集』編集の会に郷里のおしえ子鈴木千里とともに参加。

 8月、なが年仕事をともにしてきた綿田三郎の死の知らせに悲しむ。

 9月、執念をもやした『小学教師たちの有罪』がみすず書房から出版される。最後の著書となる。きわめて文学的価値のたかい歴史記録として評価される。

 10月下旬、郷里の東根にいき、キノコとりに黒伏山にのぼる。かえりは飛行機をことわり「景色をみてかえる」と列車にする。

 12月、1985年4月から『解放教育』に中野重治の教育論を連載することになり、構想をねりはじめる。

 この年、5月16日から9月30日までの毎週水曜日に、東京学芸大学の非常勤講師として「生活綴方と昭和国語教育史」というテーマで特別講義。また六月ごろから、カメラに興味をもち、植物の撮影をはじめる。この頃は、『小学教師たちの有罪』をいとおしそうにいつも手もとにおき、ひらくことしばしばであった。

1985(昭和60)年 73歳
 1月10日、日教組第34次日高教31次教育研究全国集会に助言者として参加するため、羽田から飛行機で札幌にむかう。正月から腹痛があったので医師から薬をもらい、コール天地のジャンパーを求め、ゴム長ぐつにワラととうがらしをしきつめて出かける。

 12日、第二日、国語科分科会会場の英駒中学校の体育館で午前11時まえ、言語教育について討論がおわりかけたとき、発言をもとめる。この発言がおおやけの場での最後のことばとなった。
「ご参会のみなさんで、かな文字指導の話がでていると、小学校の高学年、あるいは中学校の受け持ち、あるいは、高等学校の先生が割合に関係がないというふうに考えられるかも知れませんけれども、わたし、ことし福島県の飯坂で聞かれました日教組の自主編成講座で、目の見えない人たちのために点字奉仕している人たち、それから点字をどういうふうに表現するかということについて研究している人たちという方からの要請と、もうひとつは、ワープロがどんどんと売りだされているということ、それで、きのうは時間がありませんのでいいませんでしたが (国語分科会、第一日め全体会で、助言者・司会者団を代表して「臨時教育審議会の動向と国語科教育」と題して提案したこと)、中曽根のこれからのね、21世紀をめざす教育のあり方の中に情報化というのがありまして、ワープロ・その他を先端技術として学校に取りいれなければならないという、そういうのをてらしあわせましてね、中学校を卒業するまでの聞に、あるいは、高等学校を卒業するまでの問に、あの、グリコの怪人二十面相のまねをせよというのではありませんけどね。全文を、ひとまとまりの自分がかきたい全文をかな文字でちゃんと、
わかちがきをして、それから漢語なら漢語を、この漢語を使いたいのだという意識をもちながらね、すべてを、かなでかく。昔の電報をかくみたいにですね。そういう力をつけてやること。これが、臨教審がね、情報化というところで、なにかわれわれを非常になにか、変な、機械化の方向にもっていくのに対して、今から、克服していくために必要。
 ですから、中学卒業するまでに、あるいは、高校生に対して、いまから。
 そうすると、ワープロの中に入力するときにですね、みな入れなきゃいけませんね。点字奉仕するとき、ボランティア活動する、自の見えない人に奉仕するときも、かなで全文をかけないと、点字奉仕もできないということになること。
 それに、もうひとつ、ワープロのなかに、業者たちは漢字をどんどんふやして、三万何千字もふやして入れて、入れると、タイコウと入れると、対抗するタイコウなのか、大筋というタイコウなのかわからないときでも、転換装置をパーンとおすと、変わる (?) ようにしていますから、これからは、漢字の指導などはろくにしなくたってね、機械ででできますという、こういうふうな形の中で進められていく。
 これに対してこれからわたくしたちは展望として、現場からの要求として、そんなワープロね。三万何千字も漢字が入っているようなね、ワープロでないものを、きちんと作れという、もっと日本語を単純化してね、やまとことばもたくさん使いながら作るという、現場からの要求がないと、みんな業者、経済界から教育がすっかりおさえられていく。そのへんの展望をおもちになっていただくよう、とくに、高校・中学のうけもち、小学校の高学年のうけもちの方にお考えをねがいたい。これだけ」。 (『作文と教育』1985年4月号・田宮輝夫「国分さん最後のことば」から転載 ) 。

 この発言ののち、腹部に激痛をおぼえ、おなじ助言者席の田宮輝夫に「腹の調子がへんでね、ちよっと」といいのこして席をはなれる。ひとりになったとき、吐血と下血あり。

 現地の医師の診断をうけて、急遽飛行機で東京にかえる。土曜だったため、翌々日の14日朝、かかりつけの医師をたずね、そのまま慈恵会医科大学付属病院につれていかれ、入院する。下痢が
はげしく、吐血もあり衰弱する。病因わからずあせる。

 以後、小康状態をたもち、病床で『日本の子どもの詩』(岩崎書店)最終巻の滋賀県版、熊本県版の「あとがき」に朱をいれる。「点滴を、本をよむことについやさないで、なおすほうにつかって
ほしい」と医師から注意をうける。

 2月8日、続行中の仕事を心配し、「日本作文の会」永易実を病室によぶ。妻久枝、長女ミチコ、長男真一を同室におき『国分一太郎文集』第10巻編集促進の仕事 (①著作目録作製、②年譜作製、
③校正) を託す。

 11日朝、大量の吐血あり。自宅にもどっていた妻が病院によび出される。午後2時すぎ、発作・けいれんをおこす。のち一時意識を回復するが、3時すぎふたたび発作・けいれんをおこして意識をうしなう。

 2月12日、午前1時42分、妻と長女長男ら身うちの人たちにみとられて息をひきとる。病理解剖の結果、死因は胃ガンの再発による消化管出血とされた。73年11ヵ月の生涯だった。

 日教組の『教育評論』に1981年5月から連載していた「いつまで青い渋柿ぞ―ある戦後史」 (小社近刊) は未完のまま39回でおわった。
*    *    *
 その死は各新聞の夕刊やテレビ、ラジオのニュースで大きく報道された。翌13日の『毎日新聞』夕刊には、なが年の友、佐多稲子が「生涯の大事ご一緒に」と題する追悼文をよせた。また16日付『朝日新聞』は、「天声人語」欄で死を悼んだ。

 13日午後6時すぎから、弔問の人びとが自宅をおとずれ、故人が生前愛した庭をとおり、白菊をささげる。14日午後1時すぎ出棺、落合斎場で荼毘に付される。

 3月23日、郷里の東根で「国分一太郎をしのぶ会」実行委員会主催、東根市、東根市教育委員会共催の「国分一太郎をしのぶ会」。席上、東根市長から、児童文学者として教育実践活動をとお
し、民主教育の推進に大きな業績があったとする趣旨の表彰状が長男真一に手わたされた。

 29日午後2時から、東京南元町千日谷会堂で、「日本作文の会」主催「国分一太郎さんを偲ぶ集い」。会場正而には白菊でかこまれた遺影がかかげられ、「日本作文の会」本間繁輝の司会で、同会の乙部武志の開会あいさつ、 NHK 第二放送の録音テープによる「生前の声」、田宮輝夫による「日本作文の会と国分一太郎さん」の話のあと、滑川道夫、藤田圭雄が生前の故人をしのぶ話をした。
 各界からの弔電披露のあと「国分さんとわたくし」のテーマで亀村五郎の司会で、無着成恭、鈴木千里、岩本松子、太田昭臣らの話、中島礼子による著書『君ひとの子の師であれば』の朗読、奥
晃次による尺八演奏とつづき、遺族代表、長男真一のあいさつののち、参会者ひとりひとりが白菊を遺影のまえに献花して式をおわった。

 5月5日、遺骨は、肉親、親戚のほか、ゆかりの団体有志、個人など、生前にかかわりのあったおおくの人びとの手で、東根市津河山のほとりにある国分家の墓所におさめられた。

 国分一太郎の死を悼んで追悼特集号を編んだ雑誌は、つぎのとおり。
 『教育』、『解放教育』、『作文と教育』、『人権と教育』、『新日本文学』、『日本児童文学』、『やりもらい通信』。

(作成永易実・杉浦渉 監修宇佐美承)
*「小峰書房版およびポプラ社版の年譜を参項にして作成」したと、断り書きされている。

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