『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

「5分間メモ」から「書き直すこと」について

「5分間メモ」から「書き直すこと」について

                 「5分間メモ」による教育実践法研究会代表 早川恒敬
                 

 5分の時間制限のなかで、書きたいことを自由気ままに気分やムードで「5分間メモ」は書かれます。ですからはじめのころはそのままにしておいてよいものがほとんどです。走り書きで読みにくいものもあれば、平仮名ばかりのものもあります。日常会話で使われる「話しことば」で書いているものもあれば、文と文の間にイラスト(絵文字)などを含めて書いているものもあります。それはそれで実態把握をするうえで意義のあることです。また、最後まで書いたとしてもあくまでもメモでしかありません。

 このようなもののなかから、少し積極的意味のあるものを先生が読み上げて紹介していきます。それに触発され、書きたくなる子が増えていきます。「書きコトバ」で書くことの動機がまったくなかった子たちまでもが書きたくなっていくようになっていきます。そのうち、それではすまなくなっていきます。そのままにしておくのは「もったいないもの」があらわれるようになります。そのままにしておくことの「できないもの」までもあらわれてくるようになります。それを紹介することによって学級の気分やムード、雰囲気がよくなります。さらに学級の気運が高まるものを書いてくる子たちがあらわれはじめます。その子もまたみんなから理解され歓迎されるようになります。また、学級のみんなで考えなければならない問題を書いてくる場合があります。みんなで理解しあうことがどうしても必要なときがあります。それを学習材にしたとき、どのようなことが起こるでしょうか。

 野村先生の実践から一つの例を見てみましょう。
 若松しょう子さんは、次のように3文だけ書いて、ほんの少し気持ちを吐露していました。

●6月19日(金)〈37〉       4年 若松 しょう子
今日そうじの時に富山君がわたしのお父さんの事をはげといってきました。
わたしが「そういうこと言わないで。」といったら「それいがいに何があるんだよ。」といいました。
作文でも書いたけどかなしかったです。

 たったの3文ですが、このようなチラリとのぞかせるネガティブメッセージがあらわれたときどうすればよいのでしょうか。3文であったとしてもその扱い方なり対応はさまざまです。

 一つ目には、「5分間メモ」のほとんどが、当初においては一度書いたもののままでよいものばかりです。また、たいした工夫もなくただ書く場を設定しているだけでは、一年中そのままにしてよいものばかりになります。ですから、一度書いたものはそのままでよい、あくまでもそのままでよいのだ、余計なおせっかいはするなという考え方が起こるかもしれません。それに対してもう一つは、もしかすると、これにはもっと言いたいことがあるかもしれない、もう一度それに向き合わせてはどうだろう、書き直しをさせてみようという考え方です。「5分間メモ」を使って教育実践をする場合、おおむね、この二通りを使い分ける必要があります。

 富山君に向かって事実確認をしたり注意したりするだけでよいでしょうか。それだけで済ませる場合もあるかも知れませんがこの場合それで終わりにしてよいでしょうか。あるいはゆっくりと時間をかけて、本人にいちど差し戻して、書く気持ちがあれば書いてみてはどうだろうと呼びかけるのがよいのでしょうか。内容や状況によって、あるいは時と場合によって対応の仕方や見解が分かれるかもしれません。

 野村先生は、ここでは後者の立場をとりました。そのままにせず、しょう子さんに書き直してみるようにうながしました。すると、次のように書いてきました。

すくわれたわたし  4年 若松 しょう子

1 わたしは、3年生の時、ある男の子たちにいじわるされた事がありました。
2 でも、それはわたしの事ではありませんでした。両親のことです。
3 その事がわたしにとって一番かなしい事でした。
4 そのせいでわたしは
5 「学校なんか行きたくない。」
6 と言う言葉を言ってしまいました。
7 でも、今では全ぜん、だいじょうぶです。
8 わたしが元気になれたのは家族そして、もうこの小学校にはいないけれど、本澤さとし先生のお   かげです。
9 わたしがいじめられた時、それは3年生のはじめの事でした。
10 ある日のじゅぎょうさんかんの時に両親二人で見に来てくれました。
11 わたしが
12 「学校なんか行きたくない。」
13 と言い出したのは、その次の日からでした。
14 学校に行くといつもの男の子たちが走って来ました。
15 「お前の親わかったぞ。あのぶたの洋服のデブイやつと、ハゲのおっさんだろ。」
16 いつもだったらむかつくところが、そのしゅんかんぱっとかなしい気持ちになりました。
17 わたしは、そのことを父と母にはとても伝えられませんでした。
18 だってかなしむと思ったし、父と母のかなしむ顔なんて見ていられません。
19 その後、わたしは一人でくるしみどんどん心がおかしくなっていきました。
20 両親は
21 「何かさいきんしょう子がおかしくなってない。」
22 と言う会話がふえました。
23 次の日、父と母が
24 「ねえ、しょう子、学校で何かあったの。」
25 「えっ。」
26 「ただ聞いているだけだよ。」
27 「うん。」
28 わたしはいきなり泣きはじめました。
29 「学校でパパとママの悪口言われたの。」
30 でもわたしは1回言われただけでは、こんなくるしみません。
31 「何て言われたの。」
32 「ママのことデブイって言ったり、パパのことハゲのおっさんって言われたりしたの。」
33 すると父と母は
34 「そっか。でもべつにいいんだよ。全ぜん気にしてないよ。そんな子、相手にしているとつかれ
  るよ。」
35 その一言でほっとしました。
36 「でも。」
37 わたしが言うと
38 「だいじょうぶ。本澤先生が知ってるから。」
39 それから色々な人にたすけてもらって元気になれました。

 しょう子さんは、書く力がないから3文しか書かなかったのではありませんでした。書き方の細かいことを指示したためにこのように書いたのでしょうか。野村先生はそのように指示してはいませんでした。しょう子さんは、4月から一生懸命「5分間メモ」に向き合って、書きなれていたことはたしかです。先生に言いたい、何を書いても受け止めてもらえるという安心感と信頼関係がつくられていきました。

 本当は、心の内側に思いがいっぱいあって、それを5分間の時間のなかで、ほんの少しだけ心を表出させていたのです。ネガティブなことをコトバにすることは容易なものではありません。文章にするとなるとなおまとまりなくなるものです。先生は、しょう子さんの気持ちやどのようなようすの中でこのような気持ちになっていったのかもっと詳しいことを知りたいと思いました。できることなら学級のみんなで読みあって、大事な学習に使いたいと思いました。そのような先生のメッセージを伝えて、しょう子さんも先生の気持ちを受け止めて、家で書きました。

 このようにみると「5分間メモ」は、海に浮かぶ氷山のようにさえ思えます。見える部分はわずかばかりですが、海面下には見えない大きな塊があるようなものです。3文を読んでそのまま見過ごしてしまうかそうでないかは、先生の経験と感によるところが大きく、その人のセンスの問われるところとなるかもしれません。対応の仕方は、その子への熱い思いと願いとなることもあれば、余計なおせっかいとなることもあります。放っておくのもよくないし、この子の内面はこうなのだと勝手に深読みしてもよくないし、深入りしすぎて無い物ねだりをするのもよくありません。そのあたりのさじ加減は、担任にしかできないことです。

 やはり、わたしたちは、おせっかいにならないように気を配りながら、書き直しをしたくなるようにすすめなければなりません。それは最低限にとどめることとしても、お互いにより多くのものを学ぶことになり、一人ひとりが高まり、集団としても高まるものであれば、書き直しを求めることが必要ではないでしょうか。

 だからといって、書いたらいつも書き直しをしなければならないとしたら子どもは負担に感じたり、教師にとっても負担になったりしますからそれははじめから無理な話です。書き直しをすることの意味を理解し納得したうえで書き直すことにとりかかる関係をつくりあげなければなりません。

 書き手の子もよかったと思い、みんなにとっても「学び」になるときにのみ「書き直しの必然性」が成立します。その両方がととのってはじめて書き直すことの意味が実感され、書き直すことの意義となります。つまり「書き直しの必然性」があるときにのみ書き直しを求めるべきであると考えます。

 教師からの少し難しいかもしれない要求、そしてそれに応ずる子ども。子どもに対する尊敬が要求となり、信頼と安全と安心が要求を受け止め、そのことによって書くことにつながっていきます。「啐啄同時」の関係が書くことになり学級経営・学級づくりとなっていきます。

 野村先生は、しょう子さんのご両親とも連携し入念な段取りがととのえたところで、みんなで読み合う教材にしました。配慮に配慮を重ねて学習に取り組みました。

 「5分間メモ」は大海に浮かぶ小さな氷の塊のようなものです。なかには大きな氷山の一部であるように表面的にはわずかでも意味や内容の詰まっているものもあれば、書き直しを求めずそのままにしてもよいものがたくさんあります。しかし、ここぞというときは書き直しを求めることがどうしても必要なときがあります。やはり、担任の先生の見極めが決め手になります。

しょう子さんの文章を読んで、全員がまた5分間で書きました。一人のものを見てみましょう。

●K太 よんで、とてもかなしいです。      
お父さんとお母さんにむかってそんなことを言われたらとてもかなしいです。
ぼくだとしたら、ものすごくむかついて、なぐっちゃうかもしれません。・・・(ここまで5分間)
(このはなしを聞いて、いじめはもうやりたくありません。
いじめられた人だけでなく親もやなきもちになるんだなと思いました。)

授業後につけたされました。やっていた子かどうかはまだ確認していません。
その後・・・みんなで、拍手で終わりました。
すると「先生 今日は 給食 輪になって食べたい!」と言って来てくれました。
真ん中で配膳してみんなで一つの輪になって食べました。
すると誰からから、「あのへこみをもっと中にするとハートマークになるね!」
と次々に心温まるふんわりタイムになり大感激した一日でした。

 ネガティブメッセージのキャンペーンは、ポジティブキャンペーも準備しておく必要があります。野村先生の学級では、上記にあるように温かい雰囲気になりました。そのような見通しのもとで授業は組み立てられました。

 今回は、どの程度、表現の技術的なことについて指導ガ行われたかは報告されませんでしたが、子どもたちは、本当は、いっぱい書きたいなかみがあるのに表現の技術が不足している場合少なくありません。そういうことも考えておいて、技術的なことも指導する必要があります。それを「5分間メモ」の時間に全てができるわけではありませんから、やはり国語科の授業のなかで表現にかかわる指導というものが必要になります。その子や学級の実態、子どもたちの認識状態に見合ったカタチで、何のために、何を、どのように書くのかという考え方と表現技術そのものの方法を身につけさせなければなりません。

 また、「書き直しの必然性」がないのに書き直しをさせることは厳に慎まなければなりません。たとえば、「よい作品」にすることばかり考えるのは戒めなければなりません。そのことはもっともっと先にいったときに書き手の子が考えればよいことだからです。教師は、余計なおせっかいはするべきではありません。

 野村先生のほかにも、「学級のみんなが読むためのものにするので、自分なりに書き直しをしてみてほしい」という程度のお願いをしたところ、書き直しをしてくれた実例が小冊子になりました。4人の子どもたちは、面倒な作業にもかかわらず向き合いました。このような生活姿勢、書かれた文字からだけではないことについても、わたしたちは考えておかなければならないと思います。

 じつは、書き直しはフィードバックです。フィードバックする子できる子とフィードバックしない子できない子の見極めも担任の大事な仕事です。書き直しをする子できる子、書き直しをしたくなる子たちは、みんな誠実さがあるし、誠実さがあるから書き直しに挑むこともできます。
逆に、書き直しの活動をとおして、誠実にものごとを仕上げる生活姿勢や態度を育てることができれば書き直しということの意味は大きくなり、その意義もまた広がるようになるとわたしは考えます。

 たとえば、一年生の「磯田成海くんの表現意欲と最後まで書き上げる根気強さを感じます」(P102末尾)と草木さんは書いてありますが、このような記述が「4人のメモを読んで」のなかにいたるところにあります。
今後、簡単な書き直しから、少し手の込んだ書き直しへと進める指導法についても研究してみたいと思います。

*上は、2009年12月5日(土)に実施された「5メモ」の例会で配布さ
れた資料の一部です。


お寿司屋にて
理論研終了後、いきつけのお寿司屋で談笑する早川氏、右端(2009年5月6日)。



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